歴史と文化の宝庫

妻の神妻の神(さいのかみ)
 バスの栃堀終点、妻の神口の大きな杉の根元にある道祖神は、一石に男女二体が彫られた双体型のものであり、青く着色されています。
大切に守るために石祠の中に入っており、村内では「まともに見たら、目がつぶれる。」との言い伝えがあるそうです。
この他、市内のあちこちに石仏が多数存在しています。
地図
巣守神社巣守神社(すもりじんじゃ)
 2月に行われる勇壮な裸押し合いで、その名を県下に知られています。
広い境内には老木が天をおおうように繁り、守門岳の山霊「天香具山命」(あまのかぐやまのみこと)を祀っています。
また明治頃より富士権現、若宮神社、十二神社大岡神社を合祀しています。
毎年、春秋の大祭には、栃尾市指定無形文化財の栃堀太々神楽舞が奉納されます。
また春の大祭には御神輿の行列が村内を巡ります。2002年、屋根の銅板葺き替えが行われました。
栃尾には他にも巣守神社が数ヶ所ありますので、ご注意を。
地図
栃堀太々神楽栃堀太々神楽(とちぼりだいだいかぐら)
 明治19年(1886年)より始まり、出雲流の里神楽を見附の熱田神社の宮司から習得したもので、古い形態をよく残しており、装束についても特色が見られます。
毎年4月の春季大祭と9月の貴渡神社の大祭に奉納されます。昭和54年に栃尾市の無形文化財に指定されています。

貴渡神社貴渡神社(たかのりじんじゃ)
 通称、機神様(はたがみさま)栃尾市有形文化財で栃尾織物の基礎を築き、縞紬(しまつむぎ)の名声を高めた、植村角左エ門貴渡(うえむらかくざえもんたかのり)翁を祭った神社。
彫刻は江戸雑司ケ谷の彫刻師石川安兵衛(号雲蝶(うんちょう))により手がけられ、完成したのは嘉永元年(1848年)です。
 社殿御堂には、南北両側面及び袖側に、欅の一枚板を使って、桑負いから繭を採るまでの一連の養蚕の過程と、そして繭煮から機織りまでの様子が生き生きと表現されています。
四面にそれぞれ彫り出された人物の服装・表情などは幾分中国的ではあるが、その構図の躍動性、巧みな彫刻技法は見る人を驚嘆せずにはおかないほどです。この神社は栃堀の庄屋植村家の所有でしたが、明治42年(1909)に村有になりました。詳しい写真はコチラ

ほだれ大神ほだれ大神
 御神体は高さ2.2m、周囲2.0m、重さ約600sの木彫の巨大男根形です。毎年3月第2日曜日の「ほだれまつり」には祠から外にかつぎ出され、初嫁厄払い等が行われます。御神体に触れば願いが叶うといわれ、五穀豊穣と子孫繁栄を願います。
菅原神社菅原神社(来伝天神)
 「ごを書く石」で有名になりました。学問の神様、菅原道真公を祀った天神様です。
毎年11月に行われる合格祈願祭には市内外から大勢の参拝者が訪れます。
栃尾城跡(城山)
 写真中央の山が、城山と呼ばれる栃尾城跡です。栃尾城は南北朝時代の正平年間の築城とされ、天文12年(1543)に14歳の長尾景虎(上杉謙信)が中越地方の平定のため入城しました。ここでの戦いが謙信の初陣とされています。
栃尾城で5年間過ごした後、兄に代わり長尾家の当主となり春日山城に移りました。
慶長15年(1610)堀氏の没落により廃城となりました。中世の代表的山城で山の形が、鶴が羽を広げているように見えることから舞鶴城などと呼ばれています。
写真は2003年開通の栃尾東バイパス「とちお大橋」から撮ったものです。
静御前の墓
静御前の墓
 栃堀の高徳寺近くに源義経(牛若丸)との恋物語で有名な静御前の墓があります。
奥州平泉に落ち延びた義経を追って向かう途中、この地で病死した静を弔ったと言われています。
この墓の向かいの集落には、源氏の武将で弓の名手と言われた、那須与一の子孫と伝えられる、那須姓の方々が住んでいらっしゃいます。ちなみに、ここの公簿上の地名は長岡市(旧栃尾市)栃堀字静です。

「静御前の墓・栃尾市の源氏伝承」
(旧栃尾市公式ページ)
「静御前は越後に眠る」
(ドライブイン刈谷田さん)



 
 2006.10.8(日) 長岡市栃堀・ふるさと交流会館
           「第1回静御前をしのぶ会」


















 お墓の脇に供養の記として、「静御前を偲ぶ会」をはじめ340名の寄付をもとに平成20年12月レリーフ像が建立されました。ちなみに計画を始めた平成19年4月が没後817回忌にあたります。


トップページへ戻る

Copyright© NOAH 2001-2009All Rights Reserved