2.桜の花の咲くころに
そろそろ、祖母の四十九日を迎えるにあたって思うのは、来年の桜の花の咲くころ。
菩提寺のある三重県に祖母の納骨に行き、そして祖母のゆかりの人々と会いたいと思っています。実はこれは長年、願っていたことでもありました。

地震以来、どこか気を張っていて、これだけの長い付き合いをしてきた祖母のためにろくに泣いてもあげられないそんな精神状態です。元に戻るには時間、かかると思います。そっと泣くにしても、多分、祖母ゆかりの土地と人々に触れてからじゃないかと思っていました。ただ、こういったことは読めないものかも知れません。12月のはじめの日、新聞の片隅に掲載されたある親子3人の写真を見て、不意に泣けてしまいました。(その方々は、私のような一般人とは違いますし、この日本社会で大変な責務を負っておられます)

祖母の危篤状態は何度かあったのですが、そのうち2004年の3月末の緊急入院のときに私と祖母は最後の話らしき話をした、と認識しています。私たちが急をきいて駆けつけたとき、酸素マスクと点滴のついたその身体で不意に上半身を起こしてきたのです。ベッドの傍を指差しながら、「自分の父親と母親がいる」ということを大声で訴えていたのですが、話相手が私だと分かると「あんた、結婚どうしたんや、いいひとはおらないのか」と何度も私に問いました。でも私が祖母にいった言葉は…祖母に希望を与えるものというよりはあきらめてちょうだい、分かってちょうだい、ということで、それしか言えない事情も今後改善は望めないと思います。(祖母が死んだときに駆けつけてくれた大叔父も『結婚しないなんて、親不孝や』と言っていました。ですので、それはその時代の価値感なのでしょうね)
それだから、20代の頃からつとめて自分としては、他がどうだからと自分を引き比べないように、そして他の人のしあわせをそれとして喜ぶように…最初努めて来ました。努める、ということは、そういう自分があったということ、それが非常に醜悪にも自分には移っていた、ということです。ただ、いわば諦めがある程度ついた、それを自分である程度まで納得している今は、それほど努める必要も生じません。

ただ、一人の母親として写真に写っているその女性の表情と、あと二人、その方の大切なご家族の表情を見て、どうにも泣けてしまったのです。何が何とオーバーラップしたとかいう、そういうものを思いつかないし、説明をしようと考えるとまた混乱してしまうのですが。その女性の表情は、まだ本来の晴れやかさには遠いかも知れません。しかし、伴侶たる男性と、お子さんの表情は非常に穏やかで柔らかで明るい。世論さまざまですが、私はこの方には本当に報われる日があって欲しいと願っています。

私は祖母の介護をしていた頃は必死でした。本音を言えば、一番欲しかった家族の理解が無かったことに苦しみました。今もって、理解されてないという思いは変わるものではないです。ただし、私はせめて祖母の余生の中に実の娘である母たちを引きずり込みたかったのです。孫の私では出来ないこともあるから、母たちには存分に祖母と触れ合って欲しかった。どうしてもそれはしてみせる、と思ってやってきました。祖母が亡くなったその日も…「きちんとそれは終わらせてもらうよ」、と思っていたのです。納骨までそれは見届けさせてもらうよ、とそういう気持ちでした。それが先日、母がふと洩らした言葉で少し心持ちが変わったのかも知れません。

「本当のことをいえば、どんな状態になってもいいから、もう少し長く生きて欲しかった。
 お母さんは私の『生きる勇気』だった」


直接に礼も言われたわけでは無いけれど、この言葉を得るのに、一体私は何年かかってやってきたろう、誤解され、罵倒され、様々なことを言われつつ、やってみるものだとしみじみ思いました。その時、やっと…自分の中では傷ついていた部分が癒えたところがあります。

何に於いても、「一生懸命やっているのに」それが社会にも家族にも認められず、悲しかったり悔しかったり絶望している人は多いと思います。だけど、そういった人々の中から一人でも、自分の意図や努力がどんな形ででも無駄ではなかったという実感を味わえる人がありますように。そう思いますし、それを願い続けてやみません。


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