Day 5(Wednesday, Oct. 6th, 2004)
"The Long and Winding Road"ここに至る長い道のり
- Cornish 第2日目 -
7時に起床。外はまだ薄暗いが、シャワーを浴び着替えて階下へ降り、Innの周囲を散歩してみた。Innの裏手は、広大な緑の庭で、山林が続いていた。
8時30分から宿泊客全員がダイニングに集まりテーブルを囲んで食事をするのだが、テリーが作ってポールが運ぶ役目だ。この日のメニューは、牛乳入りの甘いシリアルみたいなものと、タマゴ・パンのような味のフワフワなホット・ケーキみたいなもの、ソーセージ、オレンジ・ジュース、コーヒーだった。食事時間は約1時間で、周囲の人と会話をしながら食べるのだが、初対面の米国人だけに内容はともかく話がギクシャクして参ってしまった。しかし、全員がリタイヤしたカップル(4組8名)で、こっちのブロークンな英語も好意的に付き合ってくれて無事に終えることができたが、緊張の余り写真を撮り損ねた(笑)。
食事の後、日本からのお土産を渡した。ポールへ浮世絵の風呂敷と扇子、テリーには彫金のコンパクトと巾着を用意してきたのだが、なにしろ日本人は久しぶり(VTに留学していた日本人カップルが数年前に結婚式を挙げたのが最初でそれ以来らしい)だそうで、こっちの期待以上に喜んでくれたのが嬉しかったね。そして、Innへの招き猫は、カンニング・ペーパ*1を持参したのでなんとか分かって貰えた(と思う)。初めて見たと喜んで玄関外での記念撮影となり、招き猫は、玄関を入って直ぐのテーブルに置かれることが決まった。
ガイドの車が10時30分に迎えに来るので、それまで暫くInnの中を散歩していた。外は結構寒いんだ。リビングとダイニングと、僕の部屋がある二階の廊下だ。
時間通りに車がやって来た。いよいよCornish(コーニッシュ)の奥地へと分け入って彼の家まで行くのである。宝探しの探検家の気分だ(笑)。大まかな道順はメモ(と言っても文章と地図をセットにしたものだからA4サイズで4頁にもなった)を用意してきたので、一部をドライバーのDon(ドン)に渡し彼のFordの前右席へ乗り込んだ。天候は爽やかな秋晴れだ。ポールの見送りを受けて、僕らはThe Connecticut River(コネチカット川)の左岸に平行して延びる州道12Aを北へ向かった。昨日Innへ来るときに渡った橋の手前に解説があるのを発見してちょっと止まって貰った。
その後、右手にThe Saint Gaudens National Historical Site(セント・ガウデンス国定記念史跡)を指すサインが見えたので寄ってみることにした。相談の結果、僕だけ1時間見学することにして、ドンは駐車場で新聞でも読んで待っていることになった。受付のお姉さんに$5を支払って日本語のパンフレット(日本人は年間数人来るそうだ)を受け取り、Visitor Centerへ行った。
結構な広い敷地の中に、幾つかの建物が点在しており、それらを繋ぐ回廊のような低い並木道が整備されている。興味のある方はサイトを見て欲しいが、僕には猫に小判だった。確かにのんびりと日向ぼっこしたり、建物に飾られている芸術作品を見学したり、遠くの山並みを眺めるのは悪くないのだが、僕には1時間でも余ってしまった。
貰ったパンフレットのイラストのポイントの写真を載せておくけど、どれがどこかは想像しながら見て欲しいし、興味なければスルーして下さい。



さて、愈々ここからが本編な訳だけど、そもそも彼の処へ行ってみるのもアリかなって考えたそもそものキッカケは、1997年秋に見つけたこの記事*2だったと思う。当時僕は、彼に関するサイトを立ち上げるためのコンテンツ・ネタを探していたが、その際に発見したのだった。実は、この類の話はそれ以前にも幾つかあり、有名なのは、Michael Clarkson(マイケル・クラークソン)著『Catching "The Catcher in the Rye"*3』だろう。僕は作家に執着してなかったし*4、今ほど自由な身でもなかったために、彼の処へ行こうなどとは全く思いも寄らなかった。なのに、なぜ?
僕らは、コーニッシュの設立と共にある緑色の史跡に近く、Blow Me Down Millで有名なThe Old Grist Mill(オールド・グリスト製粉所)を通過し、白い杭垣で仕切られた小さな墓地を通過した後、Platt Rd.(プラット通り)と言う狭いアスファルト道で右折し、1mileほど上り坂を進んで右折した。
大きな赤い納屋を過ぎ右方向へ進むと、道はLang Road(ラング通り)になっていた。Austin Farm(オースティン農場)と古い学校を過ぎ、左手にThe Stephen Tracy Farm(スティーヴン・トレーシー農場)とThe Northcote house(ノースコート・ハウス)を通過し、道の両側に緊密に植えられた高い木々の間を運転すると、左手には、燃えているように見える赤い家が見えた。
丘の頂上へ到着したら道の両側に牧草地が広がっており、情報*5によるとそこはSander Hill Road(サンダー・ヒル通り)とのことだが、そのようなことを告げる何か記入された標識はなく、古く荒廃された納屋があるところで路肩に車を止めた。ナビゲーション的には「目的地の周辺です。運転、お疲れ様でした」って訳だ。
そこから木々を通して丘の頂上にある彼の家を微かに見ることができた。今でも週末には結構な数の読者が来るそうだが、幸い、僕たちの他に“招かれざる客”は居なかった。幾つかのポイントを散策したが、内部を窺い知ることはできなかった。
そして、周囲を歩いていたら、家へ通じる坂道の木にこんな掲示板が幾つか釘で打ち付けられているのを見つけたが、ちょうど門柱に付けられた表札のようにオレンジ色が陽の光を受けてピカピカ輝いていた。
こんな風に書いてあった。
POSTED
PRIVATE PROPERTY
HUNTING FISHING OR TRAPPING OR
TRESPASSING FOR ANY PURPOSE
IS STRICTLY FORBIDDEN
VIOLATORS WILL BE PROSECUTED
その警告に従ってそれ以上の進入は試みなかった。訪問したり逢ったり話しをするなんてことは最初から望んでいない訳で、既に所期の目的は達したのであるから、それ以上は必要なかった。木々の間から透けて見える彼の家とその背後の青い空を眺めながら爽やかな風を受けていたら、最初に彼の本を手にしてからこれまでの何十年かの想いがボンヤリと浮かびなんだかとても幸せな気分になれた。僕にはそれで満足だった。家へ通じる坂道の手前に名前も番地も書かれていないポストがあり、多分この坂道の上の住人のものであろうと、日本から持参した小品を入れ、来た道を戻った。
ドンが用事があると言う事で一旦彼の自宅へ向かう。実は、お昼をどうするかと言う話になり、僕は大丈夫だよ(実際、昨日のスパゲティが堪えていた)って言っていたのだが、彼は欲しかったんだと思う。15分くらい外でブラブラしていたが、馬の居る広い敷地だったのには驚いた。
その後、Quechee Gorgeと言う景勝地へ案内してくれた。深い渓谷の上に架かる橋なのだが、遠くにVTの山並みがくっきり眺められる素晴らしい場所で、多くの見物人が訪れていた。
次に、Ivy League(アイヴィー・リーグ)の一つDartmouth College(ダートマス大学)のあるNHのHanover(ハノーバー)へ行った。「アイヴィー・リーグ」は、米国北東部にあるBrown University(ブラウン大学、1764年)、Columbia University(コロンビア大学、1754年)、Cornell University(コーネル大学、1865年)、Dartmouth College(ダートマス大学、1769年)、Harvard University(ハーバード大学、1636年)、University of Pennsylvania(ペンシルべニア大学、1751年)、Princeton University(プリンストン大学、1746年)、Yale University(イェール大学、1701年)の8大学からなるグループで、「蔦(Ivy)が生えるほど古く伝統的な学校である」からではなく、自分たちを「正選手、レギュラ(VARSITY)同士の」という意味で「INTER-VARSITY」略して「I-V-Y」と呼びあっていたが、1930年代にニューヨークの新聞記者が「IVY(蔦)」と表記して報道したことでアイヴィー・リーグという呼称が定着した。
唯一名称に"College"とあるように小ぢんまりとした大学で、町の中にキャンパスがあるのかキャンパスの中に町があるのか分からない。大学所有のスキー場が3つもあるなどヘビー・デューティー・アイビーの生みの親とも言える大学でそうで、ダートマス・グリーンと呼ばれる濃い緑色がスクール・カラーだ。シンボルであるBaker Library前とCoopやBook Shopの連なる街中を通過した。
天気も良く本当に快適なドライブ日和であった。こんな場所もあるんだよって、古い蒸気機関車が展示されている処や買い物をするためのみやげ物やとかを案内してくれた。
とにかく、山や川や湖は綺麗で、色々な場所を2時間くらい案内してくれた。
途中、夕方着で昨日は良く見られなかった駅前通りであるその名もMain Street(中央通り)なんかを廻ってもらい、多分ここがその名の通りの一番の繁華街なんだろうなあ〜とか想いを巡らしていた。
予定通り、4時間のドライブを終えて14時半前にInnへ戻り、$140プラスTipを渡し、最後に記念写真を1枚となった。やはり田舎の人は人当たりがやさしく、親身になってくれるような気がしたのは気のせいだろうか。お〜いドン49歳、右後ろのストップ・ランプが切れているぞ〜!
部屋に戻ったら昼食抜きな事に気が付き空腹感を感じたので、昨日からおいてあった果物とクッキーとコーヒーで済ました。天気がイイのでInnの外へ出て一服したが、ここが一番のお気に入りの場所だった。
1時間くらい休んでいたら、ポールが裏山をバギーで散歩しに行こうと誘ってくれたので助手席に乗り込む。こんな時間の宿泊客は各自の車で好きな場所を廻っているのが通例でInnに残っている者はオカシイのだが、事情を理解してくれている彼は色々気を遣ってくれていたと思う。とにかく広い敷地なのだが、いろんな木々や野草、こんなキノコなんかがあちこちに点在しているのを見ながら、51歳とは思えないかなり乱暴な運転に参ってしまった。川崎重工製のハイ・パワーだから大丈夫だと自慢していたが、いつか転倒するんじゃあなかろうか。
そんなこんなで30分くらい進んだ処で「先に帰るから歩いて戻って来い」と残されてしまった。「クマがいるけど未だ大丈夫だよ」とか言いながら山を下って行ったが、辺りは鬱蒼とした森林でなんとも乱暴な話じゃあないかと思ったりしたけど、まあ明るいから心配あるまいと下山を始めた。
結局、迷いながらも40分くらいで引き返せ、矢印のとこから飛び出て視界が開けた時には流石にほっとしたね。ポールは、僕を見てお帰りもなく、ただ"Hi"としか言わないものだから、こっちも"Hi"としか応えなかった。
16時半くらいだったので、夕食を食べに駅前まで歩いて行くことにした。まあ30分もあれば着くだろうと高を括っていたら道路に歩道がなく、脇をビュンビュン車が通過するもので、かなりスリリングだった。州の選挙でもあるようで、家の前には支持する候補のパネルが何枚も出ていた。
全米一の木製屋根付き橋を足で渡った日本人は恐らく初めてではなかろうかなんて思いながら駆け足で渡った。車が擦れ違うことができる程度の幅しかなく、歩行者など考慮されていない構造なので、対向車が来ないことを確認して一気呵成で渡るしかないのだ。途中息切れしてしまいコネチカット川の真中辺りだったので休憩し、その後ダッシュした。
渡り切り振り返ったが追手は来なかった(笑)。橋を渡るとWindsorのBridge Streetで、通りの全景を納めて見た。
Bridge Streetの途中で右折して駅前に通じる中央通りへ入り、そのまま100m程進むと右手に駅へ通じる坂道に達するが、中央通りの両側には商店やガソリン・スタンドやコイン・ランドリーなんかがあって、街らしい風景だった。途中にあった白い建物はOld South Charchだが、塔に付いている時計は全て止まっていた。商店街のほぼ中央の駅の正面に当たる場所には中国料理店があったが、どの街でも商売している中国人は多く、彼らのバイタリティを改めて実感した。
中央通りを500mも進むと付近はまた建物のない普通の道路になっていたので、そこからUターンして駅まで戻ったが、左折する直前に兵士のモニュメントがあったけど、それが何を意味していたかは覚えていない。
駅に付いたが、そこは駅ではなく昨日夕食を取ったWindsor Station Restaurantと言うレストランである。17時半からの営業で15分くらい早かったので待つことにして、単線の線路を南方向、北方向と眺めていたが、駅とは言ってもホームもなく、標識さえない、本当に殺風景な感じだ。
昔の駅舎の中には、Getz/Gilbertoの『THE GIRL FROM IPANEMA』が流れていてなんだかNYCが懐かしかった。最後のディナーと言うことで、サーロイン・ステーキをオーダーし、昨日と同様黒ビールHarpoonを頼み、前菜のシーザース・サラダを食べたが、これは美味かった。結局ビールをお代わりして合計$28.63と贅沢な夕食だったなぁ。
1時間くらい食事して外へ出たら、もう辺りは真っ暗闇で、この中を歩いて戻るのかと想像したら少々ビビッてしまったけどしょうがない(笑)。月明かりで薄ぼんやりした通りは田舎道そのもので、橋の中も恐ろしかった(爆)。道路には街灯もなく、手(足)探り状態でInnに辿り着いた。さあ、あとは寝るだけだと2階の部屋へ向かったら、広間の暖炉が赤々と点いていて嬉しかった。暖炉の前のテーブルにはマーブル・チョコのような小粒が山盛りに置いてあるのだが、余りの甘さに3個が限度だった。
明日の準備を終えてベットに横たわったら、今日の出来事が浮かんで来た。同じ空気を吸っている作家が存在し(A)、彼の手による本たちが存在し(B)、それによりある時期大いなる影響を与えられた事実が存在する(C)場合、(A)は、(C)の価値の要件(ファクター)となり得ないとしても、受けた影響から自己の行動を辿り将来を考える時に、(A)であるか否かは重要なファクターとなる。人間は環境の動物であって周囲状況に左右され、小説は現実を写生(模倣)するのだから、その時代背景こそが全ての物事のベースとなり、それに対してどのように思考し、表現し、行動して(B)を生み出したかを推考し、それと(C)による自己の結論とを比較検証してこそ、これからの進むべき指針を得ることが可能であり、その検証材料としての(B)、すなわち、同じ空気を吸っている=時代背景を共有している(A)の(B)こそがその資格(価値)を有するのではなかろうか。もちろん(C)に対する(B)の寄与度が不明であったり、そもそも(C)を蜂起しない(B)であったとしても、その価値が否定されないことは言うまでもないけれど、人類の進歩としての(B)の価値はそれに尽きるんだと思いつつある。そして、彼は存在した。
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*1:"The Beckoning Cat which raised the right hand causes luck with money, other which raised the left hand invites people. A White Cat causes fortune, a Black prevents evil, a Red prevents the illness, and a Golden opens fate."って感じ。
*2:残念ながらこれを紹介してくれたサイトはもうなくなっている。著作権的には問題ある掲載かもしれないので、ある日突然にこのサイトから読めなくなる可能性がある。
*3:これは、『中央公論』1980年4月号に邦訳が掲載された。
*4:William Cuthbert Faulkner(ウィリアム・フォークナー)が言うところの「かつては論じ、研究し、論評する対象となる公のものは作品だけであった。・・・作家が犯罪者となるか、公職に立候補するかしないがぎり、プライバシーはその作家本人のものであった。彼にプライバシーを守る権利があるだけでなく、大衆にもそれを守る義務があった」は、今でも僕のサイトのトップに掲げてあるし、今年の初めに僕のサイトを訪れてくれた若い読者へは、「小説『THE UNBEARBLE LIGHTNESS OF BEING(存在の耐えられない軽さ)』の作者であるチェコの作家Milan Kundera(ミラン・クンデラ)は、『L'ART DU ROMAN(小説の精神)』の中で「小説の唯一の存在理由は、小説のみが語りうることを語ること」と言っていますが、全く同感です」って話しをしたけど、今でも変わっていない。
*5:News sourceは秘密だがその気になれば簡単に見つかるだろう。現在では、彼の家の位置は大きな秘密ではないけれど、詳細な道順は省いてある。