18
その日は朝から雨が降っていた。窓の向こうで、景色は薄い灰色に沈んでいる。
いつもより少し早く起き出したSUGIZOは、入れ違いに背を向けて自分の部屋に入ってしまった今井を見かけて首を傾げた。朝、起き出してからもう一度自室に戻ってしまうなど、これまで一度も見たことがなかったからである。
疑問に答えてくれたのは、SUGIZOの分の朝食を用意していたINORANだった。
「今日はね、朝から雨で気分がのらないから店は休みにするんだって」
雨だから休み、とはなんともマイペースな今井らしい。そう思いながらもSUGIZOの心はもう別のことに飛んでいた。
SUGIZOは時間を探していたのだ。西の廃墟へ行ける時間を。
RYUICHIのことをもっと知りたかったし、自分のこと知ってもらいたかった。
自身のことを話すのは、カザラの中では危険なことでしかない。
だがRYUICHIや真矢の言葉を信じれば、あの西の廃墟は本来無人で、カザラとは別物。廃墟がカザラではなく、RYUICHIが廃墟からカザラに来るのでないなら、RYUICHIに自分のことを話すのはそう危険なことではないはずである。
そう考えると、RYUICHIともっと様々なことを話してみたいと思う気持ちがSUGIZOの中でどんどん膨らんでいった。危険性を忘れたわけではないが、RYUICHIに対する好奇心がなにより勝っていたのだ。
しかし今井の店は案外忙しく、INORANと二人で武器の整備や修理、改造に追われる日々がしばらく続いていた。
INORANは相変わらず、無口だったり賑やかだったりと変化が激しい。それも、切り換わるのが一瞬だったりするから、SUGIZOも時々ついていききれないことがあった。
一つSUGIZOにも分かるのは、INORANがJに抵抗感を抱いているらしいということ。
どうにもJの態度に馴染めないらしく、Jが店に来ると途端に黙り込んだり奥に引っ込んでしまったりする。嫌われているのかとJが肩をすくめたのも一度や二度ではない。
Jがナイフの手入れを頼みに来て初めてINORANと向き合った時に、二人の間に流れたものがなんだったのか。
その答えはSUGIZOには今でも分からないが、少なくとも好感ではなかったらしいと思う。それほど、INORANはあからさまにJを避け続けているのだ。
INORANの様子を気にかけながらも、SUGIZOの心はふとした時にRYUICHIを思い浮かべてしまう。
そんな日々に突然降って湧いた今日の休みは、SUGIZOには願ってもないことだった。
朝食を片づけると、SUGIZOはINORANに出かけてくると告げて、柔らかく降り続く雨の中へ足を踏み出した。
最初から濡れるつもりで外へ出たとは言え、上にもう一枚なにか着るくらいすればよかったかと、SUGIZOは小さく舌打ちした。いつかの風で空中へ舞い上がったのであろう砂の粒子が、雨に混じって地上へ戻って来る。おかげで髪も服もすぐに汚れてしまった。
人影もまばらな大通りへ出てから、人影などまったく見えない西側へ入り直し、西のゲートへの道をまっすぐに進む。
足元で雨に叩かれる砂は、SUGIZOの靴底が触れると重いながらもふわふわと舞い上がり、服の裾を汚した。西のゲートを越えると、砂は更に服にまとわりついてくるようになる。
今日のRYUICHIは、この廃墟のどこにいるだろうか。雨音にもかき消されないRYUICHIの歌声が、どこかから聴こえてこないだろうか。
SUGIZOはRYUICHIを見つけた広場に向かいながら、その姿と声を探し求めた。
程なく辿り着いた広場に、RYUICHIはいなかった。SUGIZOがこの廃墟へ来るのは三度目になるが、初めてのことである。
しかしむしろ、どこにいるか特に決めていないと言っていたRYUICHIが、二度目もここにいたことの方が珍しいのかもしれない。
降り続く雨の向こうには、歌声も聴こえない。SUGIZOは軽く溜息をついて、濡れた前髪を指先でいじってみた。
まだ時々、後ろ髪に触れようとしてしまうことがある。切ってしまった後ろ髪の短さに、不安にも似た気持ちになることがある。
ラウルを飛び出してから、まだ一月も経っていない。ラウルから離れたあの日からこちら、全く緊張しなくて良い時間というのは、実はそう多くなかった。
ラウルにいた頃なら、SUGIZOにはINORANと一緒にいる時が一番安らげる時間だった。元々口数の少ないINORANとの間に、なんの会話もないこともあったが、それでもよかったのだ。
しかし、カザラに来てからは今井の家に居候しているせいもあってか、INORANと一緒にいるのに心底安らぐことはなかった。
なくなってしまったそんな時間を、RYUICHIとの間に求めているのかもしれない、とSUGIZOは思う。実際、RYUICHIの歌を聴いている時間は、ラウルでINORANと一緒にいた時間に近い穏やかなものだった。
西の廃墟へ来ればRYUICHIに逢える、逢えばあの歌が聴ける。その考えは、甘かったのかもしれない。
RYUICHIどころか生きているものの気配がまったく感じられない広場に立ち尽くして、SUGIZOはもう一度溜息をついた。
この廃墟は広い。RYUICHIを捜し歩いても、逢えない可能性は高い。
諦めて今日は帰ろうかと踵を返しかけて、SUGIZOは首を横に振った。
この前もその前も、今日ほど早い時間にここへ来たわけではなかった。今日は、RYUICHIを捜し歩く時間がある。
廃墟そのものの探索も含めて、RYUICHIを捜してみようとSUGIZOが歩き出すまで、そう長い時間はかからなかった。
とりあえず、まずはカザラの西ゲートの反対、この廃墟の西の端を目指すことにして、SUGIZOはゆっくりと歩き始める。
雨はまだ、弱まる気配を見せない。
どのくらい進んだ頃だろうか、前方にまだゲートや柵などが見えそうもないところで、不意にSUGIZOは足を止めた。
足音と雨音以外の音を、耳が聴き分けたのだ。
西の端へ向かうのをやめて、SUGIZOは音のする方へ耳だけを頼りに歩いていく。
いくらも進まないうちに、その音はただの音から歌声に変わった。覚えのある、通りの良い声が奏でる旋律。
歌声をかき消そうとするかのように、雨足は強くなる。急き立てられるように足を速めたSUGIZOの視線の遥か先に、不意に人影が飛び込んだ。
SUGIZOが反射的に足を止めると、だいぶ近づいていた歌声がぴたりと止んだ。
雨に霞む視界の中で、その人影はじっと動かない。SUGIZOもまた、動かなかった。
幾度か呼吸を繰り返すと、雨の向こうの人影は突然動いた。
あっという間に遠ざかるその姿を追って、SUGIZOは走り出す。相手もそれを分かっているのか、かなりの速さで走っているように見えた。
角を曲がっていくその人影を、SUGIZOは正確に追っていく。しかし、やがてSUGIZOの視界から人影は完全に消えてしまった。
溜息をついて足を止めたSUGIZOの耳にその時、すっかりその存在を忘れてしまっていた歌声が飛び込んできた。
最初はこの歌声を追っていたことを思い出して、SUGIZOはまた走り出す。
少し進むと、またあの人影が見えた。SUGIZOが追いつくのを待つように足を止めていた相手は、またSUGIZOに背を向けて走り出す。
追う。見失うと歌声が響く。また追う。
どれだけ走り、何度足を止めたかも分からなくなった頃、人影は不意に足を止めた。
やっと追いついたSUGIZOを振り返ることもなく、歌うこともなく、RYUICHIが立ち尽くしている。
その足元には、人が乗れるくらいではあるものの本物よりずっと小さい、木製の馬が何頭か転がっていた。
足や首がなくなってしまったもの、腹や背が割れたり欠けたりしてしまったもの。どこかが欠けた馬ばかりで、砂の上に立っているものは一つもない。
半ば砂に埋もれた馬の首を、しゃがみ込んだRYUICHIはゆっくりと撫でていた。
「まだ話してないことが、たくさんあるね」
口を開いたRYUICHIは、SUGIZOを見ないまま呟いた。
「俺だって話してないことはたくさんあるよ」
SUGIZOもRYUICHIの背中を見つめたまま呟く。
話したいことも話してもらいたいことも、たくさんある。
けれど話していないことの中に、話したくないことがあるのも事実だった。
複雑な心は、話したいと思っていたことを口に出すのをためらわせる。
不意に、RYUICHIが振り向いた。壊れた馬の首に手を置いたまま、身体をひねってSUGIZOを見上げてくる。
RYUICHIの唇が小さく動いた。そこから流れ出た言葉は、まるでSUGIZOの思いを知っていたかのように、SUGIZOの背中を押す。
「……聞いてくれる?」
SUGIZOは黙って頷いて、RYUICHIが触れているものとは別の馬に腰かけた。
そして、さっきまで歌を紡いでいたRYUICHIの唇が、なにかを語り始めるのを、待った。