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太陽・作

 

「大丈夫か、オスカル?」
アンドレの胸に縋ったまま、彼女は小さく頷いた。
「大丈夫だけど・・・」
「だけど、何だ?」アンドレが心配そうに聞いた。
「喉が、渇いた・・・。何か飲みたい・・・。」
「何だ、そんなことか。待っていろ、今持ってきてやる。」
アンドレはワインを持ってくると彼女に飲ませた。
「ふーっ、美味しい。」
ワインを一口飲むと彼の胸に凭れながら彼女は言った。
「アンドレ、私は今日ほど生まれてきて良かったと思ったことはない・・・。本当に幸せだった。父上や母上やばあやにも二人の仲を祝福してもらって、神の前で結婚式を挙げることができた。こうして身も心もお前の妻になれたし・・・。普通の女性としての人生を歩くことができた。平凡な人生にどこかで憧れていたのかも知れないな。でも、最初から普通の女性として育っていたら、お前に会うこともなかったし、今ごろどこかで母親として、生きていたのだろうな。想像もできないが・・・。」
アンドレは自分の胸に掛かる彼女の豪奢な黄金の髪を弄びながら言った。
「俺は、お前に会えなかったら、つまらない人生を送っていたのだろう。お前が平凡な人生を歩いてこなかったからこそ、俺たちは巡り合うことができたのだ。俺も今日が人生最良の日だよ、オスカル」
彼女の肩までシーツを掛けてやり、軽く頬にキスをしながら言った。
「今日はいろいろあって、疲れただろう? もう、休んだほうがいい。おやすみ。オスカル」
「うん。おやすみアンドレ。今日からは、こうしてお前と一緒にお前の腕の中で眠っていいのだな。朝までずっと。」
「そうだよ、オスカル。」
オスカルはアンドレの逞しい腕の中で安心して眠りについた。

「昨夜は本当に地獄だったのだからな・・・。理性が完全に吹っ飛んでしまいそうだった・・・。でも、もうお前は俺のものだ。誰にも渡さない。」
自分の腕枕であどけなく眠っている彼女をしっかりと抱きしめた。

朝の穏やかな光の中でオスカルは目を覚ました。小鳥のさえずりが聞こえてくる。アンドレは彼女の身体をしっかりと抱きしめたまま、眠っていた。
「ふふ・・・。何か生まれ変わったような気がする。身体が自分の身体じゃないみたいだ・・・。そういえば、大人になってからはアンドレの寝顔ってまじまじと見たことなかったな。ふふふ・・・。男のくせにきれいな顔だな。どきどきするぞ・・・。髪の毛も好きなんだよな、真っ黒で、柔らかくて・・・。ふふっ。あっ、髭がある。当たり前か、男だからな・・・。チュッ・・・。うふふ・・・。キスすると痛いな。うーん、何かおもしろいぞ。」
オスカルは彼の顔を指でなぞりながら一人でぶつぶついっていた。
「こら、何をしている・・・。くすぐったいぞ。」
上半身を起こすと彼女を抱きすくめる。
「おはよう、オスカル。」頬に軽くキスする。
「お、おはよう、アンドレ。」
いたずらを見つけられた子供みたいに首を竦めて、慌ててキスを返す。
「あれ、お前いつの間に夜着を着たのだ?」
「だって、恥ずかしいではないか・・・」
「脱がしてもいいか?オスカル・・・。」
「だ、だめだ! もう朝だ。明るいではないか・・・。」
「今夜までまたお預けですか?」
彼はオスカルの夜着についている胸元のリボンをひとつ引っ張った。
「あ、・・・」
またひとつリボンが引っ張られて解ける。
「だ、だめだったら・・・!」
彼女は頬を染めて、肌蹴けつつある胸元を必死に掻き合わせる。
「しょうがない、楽しみはとっておこうかな?」
アンドレは笑いながら手を止め、解いたリボンを再び結び直してやった。
「ところで、ひとりで何をぶつぶつ言っていたのだ?」
「別に、ただ寝顔を見ていただけだ。」
「ふふふ・・・、聞いていたぞ。俺に惚れ直したか?」
「ち、違う。ばか・・・。と、ところで、今日の予定は?」
照れ隠しに話しを他へ持っていくオスカル。
「予定って、お前・・・。仕事にきている訳じゃないのだから。でも、そうだな今日は先生に往診してもらおうか。」
「えーっ、医者は嫌いだ・・・。」
「だめだよ。ちゃんと見て貰わないと。」子供を諭すように言った。
「じゃあ、それが済んだら馬に乗ってもいいか? 乗りたいのだ。」
「それも先生に聞いてからな。」
「ちぇ・・・、意地悪。」

「オスカル様、おはようございます。お召し替えを・・・。」
マドロンがドアをノックしながら声をかける。
「ああ、わかった。今行く。」
夜着を脱ぎ、いつもの締め付けないコルセットをつけたオスカルに渡された服はシュミーズ・ア・ラ・レーヌだった。
「ああ、もう本当に勘弁してくれないかな。毎日こんなの着るのか?」
「ご結婚なさったのですよ。奥様におなりなんですからね。少しはお慣れにならなくては、オスカル様。でも、こちらはゆったりとしたドレスでございますので、楽だと思いますが。」
「コルセットが鎧でなくて、締め付けないところはいいけれど、夜着と変わらないと思うが? これで外を歩くのか? 信じられん・・・。あの、いつものブラウスとキュロットはないのか?」
「オスカル様、この期に及んで、往生際が悪うございます。」
「ああ、わかったよ。ただし、髪はこのままにしておくれ。」
「結い上げたほうがよろしいと思いますが・・・。」
「今日は勘弁してくれ。頭が痛くなるのだ。」
「わかりました。それでは、朝食の用意もできておりますので、どうぞ。」
「ありがとう。すぐ行くよ。」
続き間の隣の部屋から、アンドレの偲び笑いが聞こえる。
「アンドレ、何がおかしい。笑っていないで食事に行くぞ。」
「お前、毎日毎日そんなことやり続けるのか?」
「じゃあ、アンドレお前が着てみろ! 着た事がないのはお前と一緒だ。」
「着て見せようか? 似合うかもな。ははは・・・、そういえばオスカル、お前歩き方変だぞ。」
「???」
彼の言っている意味が一瞬解らなかったが、その意味することに気が付いて真っ赤になって言った。
「ばか!! お前のせいだからな。」
「でも、・・・本当に? そんなに変か? 自分でも違和感があるのだけれど・・・。」
俯いたまま小さな声で言った。
「ごめん、オスカル。うそだよ。あんまりお前がかわいいから。つい、からかいたくなっただけなんだ。」
後ろからオスカルをしっかりと抱きしめる。
「とにかく朝食にしよう。最近食が細いんだから、ちゃんと食べるのだよ。体力をつけなくてはな。」

「オスカル様、ローザン医師がお見えです。」
マドロンがドアの向こうから声をかける。

「どうぞ。」
長椅子に座っているオスカルの側で、心配そうにアンドレが寄り添う。
「すみませんが、奥様。胸をお開き下さい。」
オスカルの服を開き胸元を広げるマドロン。
「食欲はございますか? よく眠れますか? 熱は如何でしょう?」
「食べられるだけは食べているが。ここ2〜3日はよく眠れているかな?   熱も今はないと思うが・・・。」
黙って診察するローザン医師。
「先生、如何でしょうか?」
アンドレが不安そうに尋ねる。
「ご主人でいらっしゃいますか?」
「はい。」
「そうですね。奥様は・・・。とにかく休養と栄養でございます。滋養のあるものを食べ、安静を心がけて、きれいな空気で穏やかにお過ごしになる。これこそが一番です。もちろん、お元気になりますとも・・・。では、私はこれで失礼します。」
「先生、どうもありがとうございました。」
「オスカル、俺は先生を送ってくるよ。」
アンドレはローザン医師と部屋を出て行った。

「先生、本当のことを教えてください。彼女の主治医のラソンヌ先生からは、あと半年の命だと言われているのです。」
「そうですか。半年・・・。残念ですが、私の見立ても大して変わらないと思います。今はお元気だと思いますが、間もなく度々の発作に襲われることになると思います。できるだけご本人の好きなようにさせて上げてください。でも、安静と栄養で奇跡が起こることも多々あります。諦めないで・・・。また何かの時はお呼びください。それでは、奥様をお大事に。」
「どうもわざわざおいでいただきまして、ありがとうございました。」

先生を見送り、玄関のドアを閉め、アンドレはドアの前に呆然と立ち尽くす。

(だめなのか、もう何をしてもだめなのか。このままではあいつは俺の腕の間から擦り抜けていってしまう。俺はどうすればいいんだ・・・。オスカル。)

自分の足元が崩れていってしまうような頼りない感覚に襲われた。足取りも重く階段を昇るアンドレに彼女の苦しそうに咳き込む声が聞こえた。
「オスカル!! 大丈夫か!?」
慌てて階段を駆け上がり部屋に飛び込むと、彼女は長椅子に身体を二つ折りにして、ひどく苦しそうに咳き込んでいた。
「くるな! アン・・・ド・・・レ。ゴホッゴホッ。私の側にくるな・・・、移る・・・。うっ・・・ぐっ・・・ゴホッゴホッゴホッ・・・。」
「オスカル!!」
彼は必死に彼女の背中をさする。彼女が口元に当てたハンケチが喀血でみるみる真っ赤に染まる。
「離れろ・・・。アン・・・ド・・・レ。私・・・から、離・・・れて・・・くれ・・・! ぐふっ・・・・・・」
苦しい息の下からオスカルはアンドレを想い、必死で叫ぶ。
「オスカル、落ち着け! 俺のことはどうでもいい。しゃべるな! 呼吸を整えるんだ。深呼吸して・・・。」
彼女のもともと白い肌は、血の気がなくなり青くさえあった。アンドレはようやく発作もおさまり、ぐったりとした彼女を抱きかかえるとベッドに運びそっと横たえた。
「オスカル、大丈夫か?」
「ああ、もう大丈夫だ・・・。何ともない。」
生気なく彼を見上げた。
「アンドレ、これを・・・。」
マドロンがリネンを濡らして持ってきてくれた。
「ありがとう。」
アンドレは血に染まったハンケチをオスカルの手から離させ、濡れたリネンで血に汚れたオスカルの口元や手をきれいに拭いてやった。そしてただ黙って愛しい彼女の悲しみを湛えた蒼い瞳を見つめ、力の限りオスカルを抱きしめた。
「アンドレ・・・」
黙って自分を抱きしめる男の腕に、彼の限りなき深い愛情と胸が張り裂けんばかりの悲しみを感じ、それをどうすることもできない自分に涙がこぼれる。
「アンドレ!」
言葉にできない想いが涙となって次々と溢れる。二人は交わす言葉もなく、ただ抱きしめあった。
(アンドレ、私はお前に悲しみしか与えられないのか・・・!)

「そうだ、オスカル。馬に乗ろうか? 乗りたかったのだろう。」
努めて明るくアンドレが言う。
「いいのか、アンドレ? 乗りたい・・・。」
「よし、待っていろ、いま仕度してくるから。」
「おい、アンドレ。私はこの格好で乗るのか? 私は横乗りをしたことはないぞ。」
「そうだ、二人で乗ろう。一度やってみたかったのだ。」

アンドレが普通に跨り、オスカルは横乗りして、手綱はアンドレが持った。
「お前のほうが乗馬の技術は上だが、たまにはいいだろう。」
「うわっと、横乗りって不安定だな。馬が重くてかわいそうなんじゃないのか?」
「お前が軽いからいいさ。さて、どこへ行く?」
「昔行った、丘の上へ行きたい。」
「よし、わかった。」
片手で手綱を持ち、片手で彼女を支えて、馬を走らせる。
「ふふふ・・・、気持ちいいな、アンドレ。」
「初めてだな。二人で乗るのは・・・。」
「私が横乗りで馬に乗るなんて、考えたこともなかった。誰か見たらびっくりするぞ。」
「ははは・・・、そうだな」
「ありがとう、アンドレ。」

陽の光に透ける黄金の髪をひるがえし、ドレスの裾を風になびかせて、幸せそうに微笑む彼女を支える黒髪の逞しい男。馬上の二人はまるで一幅の絵画のように美しかった。

丘の上に駆け上がり、静かに夕日を見つめる二人。
「アンドレ、夕日が綺麗だ・・・。私は今日を、この景色を一生忘れない。」
そう言って振り向いた彼女の唇を捕らえ、くちづけを落とす。やさしく、激しく、そして狂おしく。

(俺は負けない。絶対に! 例えどんな運命が待ち受けようとも。必ずオスカルは俺が守る。必ず!!)

悲壮なまでの彼の決意は、彼のただ一つの黒曜石の瞳を阿修羅の如く、妖しく光らせた。

 

 

−つづく−