太陽・作

第 3 部

 

第1章 華麗なるスタンフォード城

 

 


オスカルとレジーは無言のままスタンフォード城に背を向けて馬車から降り立った。そして、自分たちに向けられた数多くの視線を感じて、白亜の城の上階を振り仰いだ。その視線に感じられるもの、それは敵意かそれとも別のものなのか、現時点では何も分からなかった。

「ロッシュ伯爵ご夫妻、どうぞこちらへ。」
執事に招かれ、城の中へと入っていった。二人は一目見て城主の趣味の良さが偲ばれる趣のある家具・調度品に感心していた。真紅の絨毯を敷き詰めた見事な大階段を上り、2階の客間に案内された。

「私はこのスタンフォード城の執事で、ファーガスンと申します。ようこそおいでくださいました。晩餐に城主がお会いになります。それまでこちらでゆっくりとおくつろぎ下さい。ただ今お飲み物をお持ちいたします。お荷物は当方で運ばせて頂きますので、お付きの方もどうぞそのままで、ご心配なさらずに。では、失礼致します。」

執事が去っていくと、オスカルとレジーは、椅子に座ったまま取りあえず部屋を見回し、エミーとシルビィはバルコニーに出ると外を眺め、感嘆の声を上げた。
「レジーさま、素晴らしい景色ですわ。湖面に木々の緑と真っ白のお城が映って、なんてきれいなのでしょう。」
オスカルも立ち上がりバルコニーに出て、湖を眺めると言った。
「ふーん、湖に接している訳か、このままここから飛び込んで水泳も出来そうだな。」
この城は湖の中に作られた水上城郭になっていた。
レジーは、城と湖が接している部分を注意深く見つめながら、オスカルに聞いた。
「そういえば確認していなかったが、お前泳ぎは得意か?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「それなら良いのだ。あそこに小型の船が何艘か見えるだろう。この城の城主は舟遊びが好きみたいだからな。あの手の底の浅い船は、ひっくり返り易いのだ。だから万一の時に泳げないと困る。」
レジーはオスカルにバルコニーの下に見える船を指し示した。
「なるほどね。しかし、この城は見事だ。外見も美しいが中はもっと素晴らしい。派手ではなく、かといって地味な訳でもなく、家具・調度品、そしてファブリックが見事に調和している。城主はどんな人間か興味があるな。」
「うん、確かに。絵画等の美術品の趣味も素晴らしい。大階段の踊場に大きな絵があっただろう、見たか。」
「もちろん。モデルはかなりの美人だったが、この城ゆかりの人物かな。」
「となると晩餐はかなり力を入れて装わないといけないかな。」
「またか・・・。」
オスカルは多少慣れたとは言え、コルセットにもドレスにも既にうんざりしていた。

晩餐が始まるまでの時間に、シルビィとエミーは他の招待客の召使から早速情報を集めてきていた。

それによると、城主はとても趣味にうるさい人で、お客にも外見的な美しさや、音楽的素養、教養などを求めるらしい。まず気に入った人間をサロンでの音楽会に誘い、その中でも特に気に入った人間は舟遊びに誘うということだった。

レジーとオスカルは正装し、大広間で行われる晩餐の席についた。
既にたくさんの人間が席に付き、城主が現れるのを待っていた。
「お待たせいたしました。城主のダーラ・クラリッサ・スタンフォード伯爵夫人でございます。」
執事の良く通る声がし、現れたのは階段の踊場にあった絵のモデルその人だった。彼女は、胸元の大きく開いた真紅の地色のドレスに黒の透かし模様の入ったレースを重ねた豪華なドレスで大広間に登場した。漆黒の豊かな髪に情熱的な黒い瞳を持ち、咲き誇る大輪の薔薇のように知性と高貴さを感じさせる美しい女性だった。彼女は大広間のお客をゆっくりと見回した。そして、オスカルと視線がぶつかった。オスカルは彼女の視線から目をそらすことが出来なかった。

レジーは優雅に歩を進めて彼女の前に立ち、膝を折ると礼をとった。
「失礼、マダム。こんな魅力的なご婦人が一人でお歩きになるなんて、耐えられません。どうぞ私にお手をお許しください。」
彼女はにっこりと微笑み、レジーに手を差し出した。レジーはその手に口づけると立ち上がり、彼女に左腕を差し出した。レジーは彼女の席までエスコートすると、自分の席に戻った。

城主は乾杯の音頭を取るために立ち上がると言った。
「今日は新しいお客様をお迎えしています。ただ今私をエスコートしてくださった、ロッシュ伯爵、そして、令夫人です。遠くフランスからお越しですの。スタンフォード城へようこそお越しくださいました。ロッシュ伯爵ご夫妻に歓迎の乾杯を致しましょう。」
「乾杯」「イギリスにようこそ。」「麗しいお二人に。」
口々に自分たちに向かって告げられる歓迎の言葉に、オスカルとレジーはにこやかに返礼した。

レジーはワインを手に持ったまま、小声でオスカルに聞いた。
「オスカル、この城のお客は本当に美形ばかりだと思わないか?」
「お前もそう思うか? 城主はもちろんだが、お客の男も女も召使までも、美形ばかりだ。」
「城主の趣味なのか? 俺はただグレンヴィル卿の趣味なのかと思っていたが、どうも違うみたいだな。」
隣で肯くオスカル向かって、レジーはウインクしながら囁いた。
「でも、お前が一番美しい。」

「ところで、ロッシュ伯爵。今夜はこの後、サロンで音楽会を開く予定ですの。よろしかったら、ご出席下さいな。」
城主のスタンフォード伯爵夫人から声が掛かった。
「ありがとうございます。妻共々喜んで出席させて頂きます。」
レジーはにこやかに答えた。

大広間からサロンへ場所を移し、音楽会が始まった。
出席者それぞれが順番に前に出て、自分の得意な楽器を演奏するか、または歌を披露していた。

じきにオスカルたちの番が廻ってきた。オスカルは、人前では絶対に歌いたくなかったし、ドレス姿でバイオリンも弾きたくなかったが、促され仕方なく立ち上がろうとすると、レジーが制して耳元に小声で言った。
「俺が行くよ。」
「なぜ? 私では駄目なのか。」
「理由は、後で。」
レジーは立ち上がると、スタンフォード伯爵夫人に向かって優雅に一礼し、言った。
「即興ではありますが、美しいスタンフォード伯爵夫人にこの歌を捧げます。」
クラブサンの前に座ると、弾きながら歌いだした。

女ったらしと言われたレジーの一番の武器は、この美声であった。女心を鷲掴みにする男らしい、伸びやかな甘い声。他の男が歌ったら嫌味になるくらいの甘い言葉を並べた恋歌を、ときには密やかにときには朗々と歌うのだ。参らない女は滅多にいない。スタンフォード伯爵夫人も黒い瞳でレジーを熱く見つめた。
女性客の面々もその美声にうっとりと聞き惚れていた。なんとなく面白くないのは、オスカルだけだった。

レジーが歌い終わるとスタンフォード伯爵夫人は、拍手しながら彼に向かって言った。
「ありがとうございました、ロッシュ伯爵。本当に素晴らしい歌でしたわ。職業歌手でもそのような声の持ち主は、なかなか居りません。」
「恐れ入ります。」
「ロッシュ伯爵、明日の午後に舟遊びを予定していますの、いかがかしら?」
「お誘い頂きありがとうございます。舟遊びに適した季節ですし、こちらですと景色もすばらしいでしょう。明日を楽しみにしております。」
レジーは彼女に向かって丁寧にお辞儀をした。

 

「奥様、ロッシュ伯爵夫妻はいかがでございましたか?」
スタンフォード伯爵夫人の後ろに控えて、執事のファーガスンが声を掛けた。
「そうね、二人とも予想していたよりも美しいし、とても気に入ったわ。男はすべてにおいて噂以上だし、これからが楽しみだわ。」
「それはよろしゅうございました。」
「でも、女はどうして何も情報がないの? 出来るだけ早く情報を集めて頂戴。あの目が気になるのよ。」
「申し訳ありません。急がせてはいるのですが、いまのところ全くつかめておりません。」
「そうそう、明日舟遊びに誘ってあるから、例の情報、確認しておきなさい。本当に利用できるのかどうか、私は今一つ信じられないのよ。」
「分かりました。準備は整えてあります。」
「とっさの時の行動は本当の気持ちが現れるものよ。その情報の通りだとすれば、利用価値はあるわね。」

 

部屋に引き上げるとオスカルは早速レジーを問い詰めた。
「しかし、あきれ返るくらい器用なヤツだな、お前は。なんだあの甘ったるい歌は。よく恥ずかしげもなく、あんな歌が歌えるな。なーにが、伯爵夫人に捧げるだ。」
「お褒めに預かって光栄です。」
レジーは余裕の笑みを浮かべながら答えた。
「それになぜ、私では駄目だったのだ。私は音痴ではないし、バイオリンの腕前だって、そんなに悪くもないと思うのだが。」
「ああ、あれか。別に駄目な訳ではない。」
「では、なぜ?」
「今はお前にあまり目立って欲しくないのだ。」
「お前はえらく目立っているようだが。」
「そうだ、俺はわざと目立とうとしている。ブルーシャークの情報があれだけ漏れているのだから、今更じたばたしても始まらないし、俺一人に注目が集まっていれば、お前が目立たなくて済むからな。」
「分かった。」
「おしとやかな、おとなしい女性だと印象づけておいてくれ。これが後々重大な武器になるかも知れない。」
「かなり厳しい条件だが、努力してみる。」

「でも本心は、俺さえも聞いたことのないお前の歌を、他の男になんか勿体無くて聞かせたくなかっただけだ。」
「は?」
「だから、恋歌は俺のためだけに歌ってくれ。」
「・・・・・・。」

レジーは、その晩なんとなく眠れずにいた。冗談めかして言った言葉を考えながら、隣で眠っているオスカルの寝顔をしばらく見つめていた。そして、そっとベッドから降りて寝室から抜け出し、隣の部屋に置いてあったリュートを手にした。

それはかなり古いが手入れの行き届いたリュートだった。最近では、廃れてあまり弾く人もいない楽器である。以前は貴族のたしなみとされる楽器だったが、弦が増えて、演奏方法が複雑になってしまった為、敬遠され、他の楽器に変わられてしまったのだった。

レジーは蒼い月を背に、窓辺にもたれるとリュートを爪弾きながら、自分自身に聴かせるように静かに歌い出した。

 

愛しい人よ
君の安らかな眠りを守るために
私は夢を見守ろう

愛する人よ
君が幸せな明日を迎えるために
私に何ができるだろう

心に鍵をかけたまま
愛に気付かず眠る君

締めつけられた心から
溢れる想いを散りばめた
声に出せないこの歌を

星よ代わりに聴いてくれ
眠り姫へのラブソング
哀れな男の恋の歌を



オスカルは彼がベッドを降りた時点で目が覚めていたが、そのまま寝たふりを続けて彼の歌をただ黙って聴いていた。哀しい響きの恋歌を、彼が誰に向かって歌っているのか、分かっているつもりだった。

小さく漏れ聞こえるレジーの歌を、シルビィは耳を澄まし、じっと聞き入っていた。やがて目の前が霞み、自分の頬を涙が滑り落ちていった。その涙の訳を今だけは考えたくなかった。

次の日―。
城の桟橋に直付けされた船が10艘ほど準備されていた。船は割と小型で一艘に5〜6人程度しか乗れなかった。船には操船のための召使が2名ずつ乗り、お客の乗船に手を貸していた。スタンフォード伯爵夫人に誘われてレジーとエミーは夫人と同じ船に乗り、オスカルとシルビィは別の船に乗り込んだ。船は、色とりどりの豪華な衣装をまとった客を乗せ、城を離れ湖の対岸に向かって弧を描くように広がっていく。湖面は鏡のように静かで、船はすべるように進んだ。森の新緑と湖の蒼、空の青それに城の外壁の白がよく映えて、オスカルたちは見事な景色と湖面を吹き抜ける爽やかな風を楽しんでいた。

オスカルは船べりから手を伸ばし、湖面の水と戯れながら周りの客に聞こえないように小さな声で言った。
「シルビィ、どうした? 昨夜からずっと元気がないみたいだが。」
「いいえ、なんでもございません。」

最近どことなく様子のおかしいシルビィだったが、今は顔色も青ざめ、震えてさえいるようだった。
「確か、船そのものは大丈夫だった筈だな。とすると、泳げないのか?」
「はい、全然泳げません。大きい船の場合は泳げなくても、落ちてしまえばどうせ助かりませんので、あまり泳げないことを気にしたことはないのですが。こういう船はもし落ちたらと思うと、逆に怖くて堪らないのです。」
「大丈夫だよ、シルビィ。そう簡単にひっくり返ったりしないから。」
「そうですよね、ありがとうございます。」

船が湖の真ん中くらいに近づいたとき、突然オスカルの後ろに座っていた夫人が勢いをつけて立ち上がった。その瞬間、船は大きく揺れてひっくり返り、オスカルたちは湖に投げ出された。

オスカルは突然のことで驚いたが、水面に向かって水を掻いた。けれどいくら泳ぎの得意なオスカルとはいえ、こんなご大層なドレスを着て泳いだことはなかった。足にドレスの裾が絡みつき、腕には豪華なレースがへばり付き、泳ぎの邪魔をした。水を吸ったドレスのなんて重いこと、水中に引きずり込まれるようだった。やっと水面に顔を出し一呼吸したオスカルは、シルビィの姿を探した。水面にはシルビィの姿はなく、紺色のドレスがゆらゆらと、水中深く沈んで行くのが見えた。
「シルビィ!」
そう叫んだオスカルの声に応えるように大きな水音がした。

 

―つづく―