太陽・作

第 3 部

 

第4章 悪魔の薬

 

登場人物紹介

 

「「レジー、すまん。許してくれ、レジー・・・」
消え入りそうな声で呟くその男は、先に『レイヴン』に潜入して連絡の取れなくなっていたフランス諜報部同僚でレジーと一番親交の深かった『ブラックオルカ』その人だった。
「ジ・・・ジョルジュ?(ブラックオルカの本名)私だ。レジーだ、分かるか?」

彼の顔は醜く腫れあがり、身体は拷問のために傷だらけで、見るも無残な状態だった。それでも何も喋らなかっただろう彼を、『レイヴン』はどうやって屈服させ、喋らせたのか。彼の生気は失われ、酷く年を取ったように見えた。真面目で人一倍責任感の強い男なだけに、自分を必要以上に責めているだろうとレジーは理解していた。レジーは牢の前に跪くと、鉄格子の隙間から手を差し伸べ、彼の傷だらけの手をつかんだ。その瞬間、ブラックオルカのうつろな目に微かな光が宿った。
「・・・?・・・レ・・・レジー?」
「そうだ、酷い目にあったな。待っていろ、今助けてやる。」
レジーは、ブーツの踵部分を外して、金属の細い棒のようなものを何本か出し、牢の鍵を開け始めた。
「いいんだ、レジー! このままで。俺はもう駄目だ・・・。」
ジョルジュは、鍵を開けようとしているレジーの手をつかみ、哀しい声でそう言った。
「何を弱気なことを。」
「俺はもう『ストーム』から抜けられない。完全に依存してしまっている。この『ストーム』がなぜ悪魔の薬と言われるのか、それはこの薬に対する依存度の高さと禁断症状の凄さのせいだ。今までに存在した他の麻薬の比じゃないのだ。一度でもこの薬に手を出したものは、絶対に抜け出せない。」
「出来るさ、ジョルジュ。お前になら。」
「無理だ。この薬は他の麻薬と違って、中枢神経を麻痺させたり、陶酔感を伴ったり、強い麻酔・鎮痛作用という本来の麻薬としての効き目は、服用してもすぐには感じないのだ。だから、虚無的享楽の手段として薬を使用させる訳ではない。麻薬などに何の興味もない普通の真面目な人々を薬漬けにするには、打って付けの薬なのだ。薬の効果は徐々に現れてきて、本人が麻薬だと気が付いたときには、既に遅く、しっかりと薬に依存しているのだ。」
「なんだって。では、『ストーム』の初期症状の特徴は?」
「説明するにはかなり難しいが、そうだな・・・、五感が研ぎ澄まされるというか、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のすべての正常な感覚が少しずつ狂っていくのだ。例えば視覚なら、ものの動きを見極める力が落ちるとか、距離感が正常でなくなるとか。俺も最初は自分が麻薬を飲まされているなんて、気がつかなかった。けれど、今の俺は薬のためなら、どんなことでもする情けない人間だ。禁断症状に耐えられなくて、お前のことを・・・、喋ってしまった・・・。すまない。」
レジーの手をつかんだままのジョルジュの手に力がこもった。
「気にするな。お前が無事だった、それだけで嬉しいよ。ほら、手を離せ、鍵が開けられないぞ。」
そう言われてもジョルジュは彼の手を離さず、真剣な顔で息を潜めて言った。
「レジー、気をつけろ。『レイヴン』はお前を狙っているのだ。」
「俺を? どういうことだ。」
「それは・・・」

カツカツカツ・・・
そのとき二人の耳に足音が聞こえた。
(レジー、早く行け。)
(分かった、ジョルジュ。また後でくる、もうしばらく辛抱してくれ。)
二人は互いに手を瞬時に握り合うと、二人だけに分かるように目で合図し、頷きあった。その瞬間、ジョルジュはレジーの指輪を一つ抜き取った。レジーはその指輪を取り戻したかったが、もう間に合わなかった。見張りの人間がすぐそこまで来ていたため、急いでその場を離れた。
「誰だ!」
「おい、誰かいたぞ。探せ」

レジーは、足音の聞こえた通路の反対方向へ音を立てないように逃げていった。すると目の前に水路が開け、船が何艘か係留されていた。元々この城は湖の上に建つ、水上城郭だから、船が有効な移動手段であり、輸送手段なのだろう。水門を開けると船で外へ出られるようになっていて、湖と直接繋がっていた。これは麻薬の原料等を目立つ陸路ではなく、水路で運び込むために使用しているのだろう。もちろん、出来上がった『ストーム』を運ぶときにも使われているに違いない。

レジーは頭の中に描いた城の地下の見取り図を確認しながら、階段を目指した。もう少しで階段にたどり着こうとしたとき、その階段方向からも見張りの人間が来た為に別の方向へ向かわざるを得なかった。そして、向かった先は行き止まりとなっていた。戻れば見張りと出くわしてしまうし、かといって見張りを倒してしまうと自分がここに忍び込んだ証拠となってしまうので、戦う訳には行かなかった。レジーは素早く頭の中の見取り図をもう一度確認した。今の位置は、城の中心付近だし、行き止まりというのは、おかしい。どこかと繋がっている可能性が高い筈だ。そう確信したレジーは、壁に目を凝らし、手で触れ、どこか少しでも変わっている所はないか、必死で探した。そのとき不思議なことに壁の向こうからうっすらと明るさが感じられた。その壁はレンガ作りで、何の変哲もない壁のように見えたが、明るさが少しでも感じられるということは、この壁の向こうにやはり何かがある筈だ。見張りの甲高い足音がすぐそこまで迫り、レジーが身構えようとした瞬間、指に微かな引っ掛かりを感じた。レジーの胸の高さくらいにあったその何かを感じたレンガを急いで押してみた。そのレンガは10センチほど奥へ引っ込み、その途端壁が向こう側へ開いた。レジーは素早く中へ入ると壁を閉めた。
「おい、誰もいないぞ。」
「気のせいだったのかな。ここは行き止まりだしな。」

その壁の向こうは空気が澱んでいた。それは、かなり長い間この通路が使われていなかったことを示していた。そこには窓も灯りも何も無いが、先ほど感じた光はレジーの頭上から洩れていた。扉が開いて光が洩れているらしく、小さく声も聞こえる。その光を頼りに辺りを見回した。そこは一人がやっと通れるくらいの幅の細い通路と階段だった。天井はかなり低く、レジーは少し屈まなければならなかった。スイッチとなっていたレンガは壁を閉めたときに元の状態に戻っていた。レンガを改めて触ってみるとこちら側にも引っ掛かりが感じられた。その引っ掛かりの正体を確かめようと暗さに慣らした目でよく見ると、月と蠍の紋章が薄く彫られていた。

(いいものを見つけたぞ。この通路は『レイヴン』も存在も分かっていないみたいだし、十分利用させて貰おう。さて、これからどうするかな? ここは、方向からすると自分たちの部屋の真下辺りになる訳だな。)

レジーは頭上の光が洩れている扉を目指し、音を立てないように狭い階段を上って行った。そして小さかった声がだんだんはっきりと聞こえてきた。

「そうか、分かった。でも、レジーはどうなっているのだろう。かれこれかなりの時間が経ったのではないか?」
「そうですね。でも先輩ですから、大丈夫です。心配はいりません。ここは元に戻して閉めておいた方がいいですね。」

レジーはほっとして、灯りが洩れている扉の後から声を掛けた。
「ちょっと待ってくれ。」

「レジー? どこだ。」
「ここだ、ただいま。エミー、いいぞ戻してくれ。」
レジーは鏡の後ろから部屋に戻った。

 

レジーは、城の表部分の見取り図と裏部分(最初に見つけた隠し階段と地下1階、2階部分及び後で見つけた二つ目の隠し通路と階段)の見取り図と水路の水門の位置と開けかたや、係留されていた船の詳細等を紙に書き込んで行きながら、3人に説明していった。しかし、麻薬工場の匂いや、「ブラックオルカ」のことは話さなかった。

「早速、今見つけた階段と通路を詳しく調べておこうか。かなり期待が持てるかも知れない。エミー、灯りを持って付いてきてくれ。」
「はい。」
「私が行く。すぐ着替えるから、いいだろう?」
「オスカル、お前・・・。」
レジーは諦めたように、頷いた。

オスカルは、結い上げた髪も下ろして、ブラウスとキュロットという姿で、現れると言った。
「お待たせ、さあ行こう。」
生き生きと目を輝かせているオスカルにレジーは
「やっぱりその方がお前らしいな。」と笑った。

オスカルは火掻棒を回すと、鏡を開いた。そして、燭台を手に持つと、鏡の後ろの通路へレジーと入っていった。灯りをつけてよく調べて見ると、この鏡の扉は裏側からは取っ手を握るだけで簡単に開けられることが分かった。そして、この扉には覗き窓のようなものが付いていて、隠し通路側から、こっそり部屋の中を覗くことができるようになっていた。しかも、この通路は、各部屋の鏡と繋がっていた。つまり、誰にも見つからずに、大体の所へ自由に出入りできるということだった。
「すごいな。よく、こんな通路を見つけたな。」
オスカルは興奮して、後から付いて来ているレジーを振り返った。
「ああ・・・。」
そのいつものレジーとは思えない力のない声にオスカルは訝しんだ。
「どうした? 様子が変だぞ。」
オスカルは、レジーに持っていた灯りを向け、彼の様子を改めて観察した。レジーはその灯りを眩しそうに手で遮るときっぱりと言った。
「いや、なんでもない。」
「なんでもなくはないだろう。呼吸は荒いし、どうしてそんなに汗をかいているのだ。ここは汗をかくほど暑くはないぞ。熱でもあるのか?」
オスカルはレジーの額に手を触れようとした。レジーはその手を素早くつかみ、自分に触れさせなかった。
「違う。大丈夫だ、本当になんでもないから。」
「そうか・・・」
オスカルは、それ以上レジーに何も言わなかった。彼につかまれた手に伝わった、彼の指の震えに気が付いてはいたが・・・。

レジーの脳裏にジョルジュの言葉が、冷や汗と共に甦ってきた。
「この『ストーム』がなぜ悪魔の薬と言われるのか、それはこの薬に対する依存度の高さと禁断症状の凄さのせいだ。今までに存在した他の麻薬の比じゃないのだ。一度でもこの薬に手を出したものは、絶対に抜け出せない。」

あのお茶を、自分はどれほど口にしただろう。お茶として飲んだということは、薬としての純度はあまり高くない筈だ。それでも既に中毒になりかかっているのか? 

あのお茶を飲んで、約1時間が経過していた。その結果を今自分の身体で確実に思い知った。この見事なまでの陶酔感、身体がまるで宙に浮いているようだ。難しいことなど何も考えたくなくなるような、怠惰な気分。頭の中で渦を巻く派手な色彩。そして、指先の震えが止められない。自分の身体なのにまるで自分のものではないような不思議な感覚。

ジョルジュは言っていた、本来の麻薬としての効き目は、服用してもすぐには感じずに、効果は徐々に現れ、本人が麻薬だと気が付いたときには、既に遅いと――。

常識で考えれば、もうあのお茶を飲むべきでないのは分かっている。それでもシルビィが彼に飲んで欲しいと本気で望むなら、例えそれが致死量の毒でも彼は口にするつもりだった。今までも、そしてこれからも。彼女のことを誰よりも一番に信頼していたから。ある意味、彼がオスカルを愛することよりも深く、シルビィのことを信頼しているのかも知れなかった。

シルビィは以前、彼に助けられたときのことを感謝していたが、レジーも彼女に何度も助けられていた。彼は女性に対しては絶対に暴力を振るうことが出来なかったため、敵の女性諜報員に襲われても戦うことが出来ず、過去に何度も命を落としかけていた。それをその都度助けたのは他の誰でもない、シルビィだったのだ。レジーが彼女を諜報部に入れたときに、オスカルのときと同様に鍛え上げてはあった。もちろん、彼女はオスカルほど強かったわけではなかったが、愛する人を傷つけようとする敵側の女性に対して、情け容赦なく反撃しただけだった。ただ愛する人の側で少しでも役に立ちたい、自分の命に代えても愛する人を助けたいと健気にがんばってきたのだった。

レジーは助けて貰った恩義で彼女のことを信頼している訳ではなく、彼女の自分に対して向けられる全身全霊を掛けた信頼に身を持って応えているだけだった。無論、彼女が自分のことを憎からず思ってくれているのは分かっていたが、はっきり彼女が口にした訳ではなかったので、それを今どうこうするつもりはなかった。彼女に対して恋人としての愛情を返すことはできないが、人間として彼女のことを完全に信頼していた。彼女に対しては、肉親の情にあまりに近くなってしまっていたために、今更恋愛対象として考えることさえ出来ないのだった。

でも、そのことがこれから自分をそしてオスカルを追い詰めていくことになるだろうことは、理解していた。自分自身はどうなっても構わないが、ここまで連れてきてしまったオスカルに対して、自分はどうすればいいのだろう。

もう、何もかも遅いのだろうか?
自分は悪魔の薬に捕らえられてしまったのか?
レジーは唇を噛み締め、哀しい目でオスカルを見つめた。

「オスカル・・・」
「ん? どうした。」
レジーは、それ以上何も言えなかった。そして黙ってオスカルの手から燭台を取り、足元に置くと、自分を心配そうに見上げている蒼い瞳に囁いた。
「少しだけ・・・オスカル、俺に力を・・・」
レジーはオスカルをその胸にしっかりと抱きしめた。彼女の鼓動、甘い香り、柔らかな温もり、そのすべてを自分の身体で感じたかった。彼は挫けそうな心を奮い立たせるために、ただ愛しい人を力いっぱい抱きしめていた。

オスカルは、目を伏せ、彼に身を委ねていた。きつく抱きしめられた彼の腕からは、苦悩と孤独が伝わってきた。オスカルは、自分の存在がいろいろな意味で少しでも彼の支えになっているのか、考えていた。

(レジー・・・。私の存在は、お前を苦しめているだけなのだろうか?)

そうして、静かに時間が通り過ぎて行き、やがて彼女の耳元に微かな声が聞こえた。
「オスカル、ありがとう。」と一言。
オスカルの頬を涙が一筋伝い落ちていった。






―つづく―

2003/1/20