太陽・作

第 3 部

 

第8章 哀しい現実

 

登場人物紹介

エミーが椅子から音を立てないように立ち上がると、扉へ向かって歩いて行った。
「エミー、どうしたの?」
シルビィが、不思議そうに聞いた。
「しっ!」
エミーは扉の向こうの微かな物音を聞きつけ、扉の外の様子を窺った。用心深く開けると、真っ青な顔色のレジーが倒れこんできた。
「レジーさま! どうなさったのです。」
大きな声で彼に駆け寄るシルビィにエミーが声を立てないように注意すると、二人でレジーを支え部屋の中へ入れ、長椅子に座らせた。
レジーは「オスカルは、無事に戻ったか?」と力なく聞いたが、エミーがそれに肯くのを見ると安心したように再び目を閉じた。

「レジー、大丈夫か? まったく、こっちも酷い目にあったぞ。あの高さはさすがに怖かったな。」
隣室からびしょ濡れの黒装束より部屋着に着替え終わったオスカルが髪を拭きながら姿を見せた。
無事なオスカルを薄目を開けて認識したレジーは一瞬表情を和らげたが、次の瞬間にはまた苦悶の表情を浮かべ脂汗を流していた。
「どうした、レジー。そんなに酷い傷を負わせてしまったのか?」
レジーの苦しむ様を見たオスカルは、自分の剣でのケガが原因なのかと慌てて彼に詰め寄ったが、レジーは黙って首を横に振った。しかし、彼が激痛に襲われているだろうことは容易に想像できた。彼はうめき声ひとつ漏らすまいと、唇を血が滲むほどきつく噛み締めていた。顔色は青色を通り越して白くなりつつあった。全身が硬直し、手足も震えている。過去にレジーがこれほど苦しんでいる姿を、エミーもシルビィも見たことがなかった。
「寝台に行きましょう。衣服を緩めたら少しは楽になれるかも知れない。」

エミーが彼の身体を丹念に調べてみたが、左腕にオスカルの剣でつけられた傷はあったが、既に血は止まっていたし、彼にしてみれば大した傷ではないだろう。他には、どこにも思い当たるような傷はなかった。怪我ではないとすると、この苦しみ方は病気なのかとエミーは思ったが、病気の苦しみ方とも違うように思え、首を傾げていた。シルビィが一生懸命彼の汗ばんだ身体を拭いたり、楽な服に着替えさせたりしたが、彼の苦痛は一向に和らぐ気配はなかった。それどころか、彼の苦痛はますます増大していくようで、声こそは上げなかったが、寝台の上で彼の身体は所在なさそうに動き回っていた。

「レジーさま、お医者様を呼びに行って参ります。」
「シルビィ、だめだ。医者は、いらない。」
「でも…、レジーさま。」
「では、私にできることはありませんか? あまりにお辛そうで。」
シルビィは、彼の身体が少しでも楽になるようにと、心を込めて手足をさすっていた。苦しむ彼の姿を見ているのがあまりに辛く、すでに泣きじゃくっていた。彼の苦痛を和らげるためだったら、どんなことでもしてやりたかった。

レジーはかなりの痛みに耐えられると自分では思っていたが、今まで経験したことのない想像を絶する痛覚だった。死にそうな大怪我をしたことも過去に何度もあった。けれど、この痛みはまるで違う。自分の身体で痛くないところなど、どこにもなかった。全身の神経が絶え間なく痛むのだ。そして、痛みだけではなく、身体が自分の思うとおりに反応してくれない。既に自分の足で立つことさえ出来なくなっていた。あのお茶を飲めばこの激痛から一時的に逃れることができるのは分かっている。けれど、お茶を飲む回数が多ければ多いほどこの禁断症状から抜け出すのが大変になる。今は、残念ながら麻薬を体から抜いているほどの時間はない。不本意だが、少量の『ストーム』で禁断症状を誤魔化しながらなんとか動くしかないだろう。

彼はしばらく歯を食い縛ったまま何か辛そうに考え込んでいたが、諦めたようにため息をつくと一言シルビィに言った。
「シルビィ、例のお茶を・・・入れてくれ。」
「お茶を? はい、レジーさま。すぐにお持ち致します。」
シルビィは、彼の願いを叶えるため、急いで部屋を出て行った。

「レジー、お茶なんか飲んでどうするのだ。その苦しみ方は、ただ事ではない。医者を呼ぶべきだ。私が呼んできてやる。」
レジーはその場を離れようとしたオスカルを止めようと慌てて起き上がり、震えるその手でオスカルの腕をやっとつかんだ。
「待て、オスカル! 待ってくれ…。医者ではだめなのだ。理由は、俺を見ていれば分かる筈だ…。ただ、その理由を……。頼む、シルビィには何も言わないでくれ。悪いのはあいつじゃない、俺だ。」

レジーは、呻き声を上げそうになる自分を抑え、やっとの思いでそれだけ口にした。愛する人の前でこんな醜態を晒したくなかった。けれど今彼にできるのはただこの痛みに耐えることだけだった。

彼はオスカルをつかんだ手を離すと、哀しそうに目を伏せた。彼女に今の自分を見られたくなかった。上掛けをつかむと顔を隠すようにオスカルに背を向け、寝台に倒れこむように横になった。
「レジー…」
オスカルは自分に背を向け、苦しみ続けるレジーに対して、何もできない自分が悲しかった。

「レジーさま、お待たせしました。何とか起きられますか?」
シルビィはお茶を手に戻ってくると、テーブルに茶器を置いた。エミーは、レジーの背に腕を回し、彼を起き上がらせて支えていた。シルビィはお茶をカップに注ぐと、レジーの手にカップを持たせた。
「熱いのでお気をつけて。」
彼は震える手で包み込むようにカップを持つと、じっとお茶を見つめていた。そして、しばし躊躇していたが意を決してお茶に口をつけ、飲み下した。3人はその様子を黙って見守っていた。彼の身体にお茶の温かみがゆっくりと伝わって行くのと同時に、まるで嘘のように痛みが消えていくのが見て取れた。もう一口飲むと身体の強張りが消え、震えも徐々に収まっていく。カップを持つ手に力が戻り、彼は夢中でカップの中身を飲み干した。2杯目のお茶を飲み終わったときには、もう何の痛みも感じていないような、劇的な効き目だった。何も知らない者の目には、素晴らしい薬のように見えるだろう。

シルビィは、その効き目を見て嬉し涙にくれて、喜んでいた。彼にほんの少しでも振り向いて欲しくて、おまじないのつもりで飲んで貰っていたお茶に、こんな素晴らしい効果があったなんて。彼女自身はその本当の理由を想像することもできなかった。

オスカルとエミーは、レジーがどういう状態だったのかを知って、愕然としていた。 このお茶は、『ストーム』だったのだ。そしてレジーは、いつからかは分からないが、そのことを既に知っていた。シルビィは、それを知らないで彼に良かれと飲ませていたのだ。 二人は自分達の迂闊さに歯噛みをしていた。

「レジーさま、このままお休みくださいね。」
シルビィはレジーから空のカップを受け取ると、少しでも楽に休めるように枕を直してやり寝台を整えた。
「いや、寝てはいられない。もう、痛みは治まったし、やらなければならないこと、考えなくてはならないことは、山積みなのだ。」
寝台から降りようとしたレジーをオスカルは押さえつけると言った。
「大人しく朝まで寝てもらおうか。激しい痛みに耐えた後は思考力が著しく落ちるものだ。それに体力も回復させなければならないだろう。今のお前は私でも倒せるぞ。」
「そうか? お前に倒されるようじゃ困るな。」
レジーはオスカルに笑顔を向けると素直に寝台に横になった。
「いい子で寝ているのだぞ。シルビィ、勝手に起き出さないようにレジーを見張っていてくれ。ちょっと、ここは頼む。」
オスカルはエミーに目配せすると、二人で寝室を出て行った。

 

レジーは観念したようにしばらく目を閉じていたが、やがて耐え切れないように目を開け、天井を見つめたまま考え込んでいた。
シルビィはレジーの手を取ると母親が子どもをあやすようにやさしく言った。
「どうなさいました? おやすみにならなくてはだめですよ。」
「シルビィ、お前は、私に何を望んでいる?」
「え? 突然、何を・・・。レジーさま、私は何も望んでいません。」
レジーはその返事を聞いて暫く黙っていたが、やがて沈黙を破った。
「冷たいようだが、いい機会だから言っておく。私はお前の望みを叶えてやれない。」 
「レジーさま・・・?」
「お前は軍属ではない。フランスへ戻ったら、この仕事から足を洗え。やっぱり最初から間違っていたのだ。お前をこんな仕事に・・・」
「どうして、急にそんなこと。私が何かしましたか? いやです、レジーさま。このままずっとお側に置いてください。」
「シルビィ。私の側にいるということは改めて言うまでもないが、とても危険なことなのだ。」
「そんなこと分かっています。今のままで、これ以上本当に何も望んでなんかいません。お願いです、お側に、お側に置いて下さい・・・。」
けれど、レジーは前を見据えたまま何も答えなかった。

オスカルは隣室の窓辺に立ち、エミーに背を向けたまま声を潜めて言った。
「まずいな。」
「はい。レジー先輩は彼女に言うつもりはないらしいですが、どう思いますか?」
「私は言うべきだと思うが・・・。」
「私もそう思います。しかし、先輩は・・・」
「そうだな、あいつの性格からして何があろうと絶対に言わない、な・・・」
二人は互いに顔を見合わせると、ため息をついた。
「今はあのお茶で禁断症状が治まってはいるが、いつまた発作に襲われるか分からない。だから時間的な余裕も全くないということになる。」
「はい」
「とすると、あいつはいやがるだろうが、やっぱりシルビィから事の次第を聞くしかないだろうな。」
「それが良いと思います。では、私が聞きましょうか?」
「いや、私が聞こう。それとお茶についても調べなくてはな。」
そう言ったオスカルの横顔は、三日月の淡い光を受けて、どこか寂しげに見えた。

「では、私はあのお茶を調べてきます。」
「一人で大丈夫か?」
「一応この仕事は私が先輩ですよ。」
エミーはオスカルに向かってはにかんだように微笑むと、隣室のレジーに気付かれないようにそっと部屋を出て行った。


シルビィは黙ったままのレジーの腕に縋り付き、必死で懇願した。
「いやです。私はお側にいます。絶対に離れません。」
「だめだ!」
普段のレジーからは信じられないような冷たい声と表情で拒絶され、シルビィの瞳が瞬時に涙で潤んだ。レジーはその涙に決心がぐらつきそうな自分を抑え、改めて言った。
「今回の仕事を最後に私は女性と一緒に仕事はしない。」
(では、オスカルさまは? オスカルさまは良いのですか!)
シルビィは、そう叫びたかった。けれど、その言葉を、爆発しそうな感情を必死で飲み込んだ。
「お、お水を持ってきます・・・ 」
シルビィは、レジーに泣き顔を見せまいと下を向いたまま走るように出て行った。そして、部屋の入り口でオスカルとすれ違った。
「どうした、シルビィ?」
オスカルはシルビィのただならぬ気配に驚き、声を掛けた。シルビィはその声に一瞬立ち止まると涙に潤んだ顔を上げ、オスカルを見つめた。今一番会いたくなかった人が、そこにいる。涙が一気に溢れ、オスカルの姿が霞んでいった。シルビィは口を開けば泣き喚いてしまいそうで、ぎゅっと唇を噛みしめ、何も答えず足早に立ち去った。

 

「どうしたのだ、一体? 泣いていたぞ。」
オスカルは寝室に入ると、寝台に横になったまま辛そうな表情で考え込んでいるレジーに聞いた。すると彼は突然イタリア語で答えた。
"Non melo dire...perfavore. Altrimenti...mi viene da disprezzarmi."
「言うな。自分が嫌いになりそうだ。」
レジーがイタリア語で話しているのは、シルビィに聞かれたくない話題なのだろうと察したオスカルは、同じくイタリア語で話し始めた。
“Gliel'hai raccontato ?”
「彼女に話したのか?」
レジーは瞬時に理由を察してくれたオスカルにほっとして、イタリア語で話し続けた。
「いや、話していない。それよりお前、薬のことを彼女に聞くつもりだろう?」
オスカルは、寝台の枕元にあった椅子に腰掛け、しばらく黙っていたがやがてゆっくりと口を開いた。
「お前には悪いが、そのつもりだ。」
「頼む。それだけは止めてくれ。」
レジーは慌てて寝台から半身を起こした。
「なぜ? そんなことを言っている余裕はもうないだろう。」
「それは分っている。お前たちまで危険な目に合わせて、すまないと思っている。」
「私たちのことは別に構わないが、『レイヴン』や『ストーム』のことが少しでも分るのではないか?」
「そうだ、それは私も知りたいが。」
レジーはそこまで言うと辛そうに目を伏せ、そして言葉を続けた。
「だが、彼女はおそらく、自分のしたことを知ったら・・・ 、生きてはいないだろう。」

知らなかったとはいえシルビィのせいで彼は今重大な危機に立たされている。それでも彼は絶対に彼女に真実を知らせるつもりはないのだ。

この男は
なぜ、すべてを一人で背負おうとするのだ?
なぜ――。


 ―つづく―

2004/4/21

 

※今回使用したイタリア語の翻訳はemilyさんにご協力頂きました。

どうもありがとうございました。