太陽・作


第 3 部

 

第9章 誤  解


 

登場人物紹介


オスカルの手が吸い寄せられるように慈愛を込めてレジーの頬に触れた。そして、彼の大きな手がその手を愛しむ様に包み込む。彼女を見上げるすみれ色の瞳も今夜は悲哀に満ちていた。

お互いに言葉はなくただ黙って見つめあい、優しい手のぬくもりで心を癒していた。オスカルはそうすることがとても自然なように、激励の言葉の代わりに腰を屈め自分からレジーにそっと口づけた。オスカルにとってその行為には深い意味はなかった。すべての責任を一人で背負い込もうとしている彼が哀しく、人間としてほんの少しでも慰めてやりたかった。レジーは一瞬驚いたが、彼女の口づけが恋人としての口づけではなく、親子あるいは兄弟もしくは友人としての親愛を込めたキスだと気がついたので、深い口づけは返さなかった。それでも、彼女から貰った口づけは何にもまして嬉しく、勇気付けられた。硬かった彼の表情が一瞬にして和み、本来の明るい笑顔に戻って行った。その笑顔がオスカルはとても嬉しかった。


目撃してしまった、哀れな女がいた。
自分には分らない言語で親しそうに話していた二人。
――どうせ、私には分らない・・・

どうせ、どうせ、どうせ、私なんか
彼はただの友達だと言っていたのに、自分から口づけするなんて。
嘘つき、偽善者
あなたは私と違って、何もかもお持ちではないですか?

――私はただ、レジーさまのお側にいたかっただけ・・・
ずっと、ずっと、ずっと、いつまでも

私はレジーさまのお側を離れなくてはならない
あなたのせいで、あなたのせいで・・・

いや! 絶対にいや! 死んでもいやよ!
あなたなんか、あなたなんか・・・

真実は何も見えなくなっていた。
溢れ出た真っ黒い感情に押し流されるように、彼女の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。

膝を折り、床に座り込んでいたシルビィが再びよろよろと立ち上がり、項垂れていた顔を上げたとき、いつもの穏やかな表情は消え失せていた。彼女は足早に部屋を出るとナンシーを探しに行った。


ファーガスンはいつもの寝酒をスタンフォード伯爵夫人に手渡しながら聞いた。
「奥様、どうしてあのときブルーシャークを追わせなかったのですか。」
「偽者だから。」
「は?」
「そう、あのブルーシャークは本物では絶対にしないことをしているのよ。でも、偽者の顔は見ておくべきだったかしら。」
スタンフォード伯爵夫人は酒を一息に飲み干すとグラスをファーガスンに渡し、寝台に横になった。 
「お休みなさいませ。」
一旦側を離れたファーガスンが彼女の元へ取って返した。
「奥様、申し訳ありません。ナンシーが急ぎお目にかかりたいと・・・」 
「ナンシーが? いいわ、通して。」
ナンシーが寝台の横に立つと夫人の耳元に囁いた。
「奥様、お待たせ致しました。例の獲物が網に掛かりました。」
「あれは飲ませたのね。」
「もちろんでございます。」
「では、後は手筈通りに」
「承知致しました。」
ナンシーは夫人に深々と一礼すると部屋を出て行った。
「ふふふ。たっぷり楽しめそうね。」
スタンフォード伯爵夫人は満足そうな笑みを浮かべ、目を閉じた。

レジーは隣に寝ているオスカルの寝息を確かめるとそっと寝台から離れた。
(すまない、オスカル。俺にはもう時間がないのだ。)
鏡の後ろの通路に入り、そこに隠して置いた黒装束に着替えた。彼には珍しく髪を一つに縛り、紐のような物で結わえた。そして、狭い隠し通路を上へ上へと上がって行き、先ほどオスカルと死闘を演じた部屋に辿り着いた。この部屋はスタンフォード伯爵夫人のいくつかあるだろう私室の一つ。この部屋にあるドアの一つがきっと彼女の寝室に続いているだろう。女性の寝室に招かれもしないのに忍び込むのは彼の趣旨に反するが、彼女が熟睡しているかどうか確かめたかった。

今までの彼の経験から、大抵の人間は大事なものは寝室もしくは寝室の近くに置いていることが多かった。レジーが探しているものは、きっとそのどちらかにあるに違いない。さすがに主のいる寝室に忍び込むのは危険すぎると、今までチャンスを伺っていたが、もう彼には躊躇している時間はなかった。彼女は寝室ではいつも一人で、休むときはお付の侍女さえも側に置きたがらないという情報を既に得ていたことも、彼に危険を冒させる要因となった。

レジーはいくつかのドアに耳をつけ、部屋の中の気配を窺った。そして人の寝息の聞こえるドアを静かに開け、姿勢を低くしたまま身体を室内に滑り込ませた。そのまま自分の呼吸を寝台の上で眠っているスタンフォード伯爵夫人の寝息に合わせた。そのままゆっくり部屋の中を見渡す。スタンフォード伯爵夫人の呼吸は規則正しく、熟睡しているようだった。
この寝室からしか、出入りできそうも無いドアが一つだけあった。寝室よりも先にその部屋を調べてみることにした。ドアは厳重に鍵が掛かっていたが、レジーは細いピンのようなものをブーツの踵部分から 2〜 3本取り出し、簡単に鍵を外した。

(ここは彼女の書斎か)
勉強家らしくかなりの書籍の数だった。が、到底普通の女性の読むような本ではなかった。英語版はもとより、フランス語、イタリア語等の多種多様な言語で書かれた毒についての専門書ばかりだった。何冊か手に取って中を読んでみると、様々な動物や植物から毒を抽出する方法や、その解毒作用のある薬草の摂取方法や植物図鑑、そして、過去に犯罪に使用された毒薬の種類や使用方法などが詳しく書かれていた。
本棚の他に目に付くものは、暖炉、大きな鏡、そして見事な細工の飾り机だけだった。彼は飾り机についていた二つの引き出しを開けようとしたが、そこも鍵が掛かっていた。鍵を外し引き出しの中を見たが、特にこれといったものは入っていなかった。けれど、レジーはその引き出しに何か引っかかるものを感じた。引き出しの深さが右側と左側では微妙に違うようだ。引き抜いた引き出しの中身を全部出し、裏側からそっと押してみる。底は二重底になっていた。

二重底の中には、レジーの探していたものが入っていた。
『ストーム』の材料と詳しい製造方法が書いてあるもの。そして、『ストーム』による人体実験の記録。その書類の束に急いで目を通し、折りたたむと胸の内ポケットに仕舞い込んだ。

「!」
人の気配にレジーが短剣を手に振り返ると、スタンフォード伯爵夫人がドアを開け、手にした拳銃の銃口をレジーに向けながら平然と聞いた。
「お探しのものは見つかったのかしら?」
「はい、お蔭様で。夜分大変失礼致しました。」
レジーもまったく動じる事なく、優雅にお辞儀をして答えた。取り敢えず目的の物は見つけたし、後はただこの場から逃げるだけでいい。自分一人なら逃げる方法はいくらでもある。

「ちょっと待って。マスクを取って、その顔を拝見させて頂くわ。」
「それは無粋な。」
レジーは笑いながら彼女の手の銃口を見据え、逃げる方向を定めた。
(銃は一丁、弾は一発だけだ。それさえ避けられれば・・・)
「逃げないで、素直にマスクを取ったほうが良いのではなくて?」
スタンフォード伯爵夫人はベルを手に取るとチリチリと鳴らした。ファーガスンを先頭に一人の女が両腕を二人の男につかまれ、引きずられるように姿を現した。彼女は両手を後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされていた。

(しまった! シルビィ・・・)
「彼女がどうなってもいいのかしら」
スタンフォード伯爵夫人は、平静を装ってはいるが、逃げることも反撃することも出来なくなっているレジーの反応に満足していた。微笑みながらレジーに近づくと彼の持っていた短剣を取り上げ、シルビィの喉元に突きつけた。見開いたシルビィの目には、涙が浮かんでいた。
「さあ、どうなの?」
短剣の切っ先がシルビィの頬を切り、うっすらと血が滲む。
シルビィは声にならない声を上げ、身を捩った。
「こちらでも良いのよ。この距離ではどんなに射撃が下手でも外しようがないわね。」
スタンフォード伯爵夫人は短剣を拳銃に持ち替え、シルビィのこめかみに当て、撃鉄を起こした。
シルビィの顔が恐怖に歪む。

「止めろ! 分った・・・、これで良いのだろう」
レジーは己の負けを悟ったようにゆっくりとマスクを外し、その素顔を晒した。

「やっぱりブルーシャークはあなただったわね。やっと捕まえたわ。ずっと探していたのよ。」
スタンフォード伯爵夫人はレジーの頬を撫でながら、嬉しそうに笑った。

「ふふ・・・マスクが無いほうが素敵よ。せっかくの良い男が台無しだわ。私は美しいものが大好きなの。そうそう、マスクの代わりにこちらをプレゼントするわね。」
屈強な男たちが金属製の手枷、足枷を重そうに持ってきた。男たちはレジーの腕を後ろに回すと手枷をはめ、足には重りのついた足枷をはめた。これによって手の自由は全く利かず、足は歩幅も制限され、ゆっくり歩くのが精一杯となってしまった。

「いい格好だわ。お似合いよ、ブルーシャーク。これがあなたに外せるかしら?さすがに探し物はお手の物みたいだけれど、あれはあなたに渡す訳には行かないの。返して貰うわ。」

彼女はレジーの内ポケットに手を入れると書類の束を抜き出した。彼女が目配せするとファーガスンが近づき、レジーの身体をくまなく探し、隠し持っていた武器をすべて取り上げた。
「あなたは女性が大好きみたいだけれど、男性より女性のほうが残酷だって知っていて?」
「いいや、幻滅させないで欲しいな」
「では、私がじっくり教えてあげるわ。」
「好きにしてくれ」

レジーはそう言いながらも決して諦めた訳ではなかった。彼一人なら武器が無くてもどんな状況であろうとも、なんとかこの場から逃げ果せる自信はあるが、それではシルビィを助けることができない。それにスタンフォード伯爵夫人の『ブルーシャーク』に対する異常なくらいの憎しみはなぜなのだろう。
「彼女には手を出すな」

「いいわよ。あなたがおとなしくしているならば。私はあなたの泣き叫ぶ声が聞きたいだけなの。私に平伏し、許しを請う声がね。」
「・・・・・・」
「拷問は、何がお好き? 何でもお好みのままよ。」
「痛いのも苦しいのも嫌いだ。」
「あらそう、残念ね。」
シルビィがスタンフォード伯爵夫人の言葉に反応したように、暴れだした。
「ああ、うるさいわね。静かにさせて」
「はい」

シルビィを支えていた男の一人が彼女のみぞおちに当身を食らわせた。意識を失った彼女を側の椅子に座らせ、椅子ごと縛り上げた。
「頼む。彼女に乱暴しないでくれ」
「あら、人の心配なんかしていられるのも今のうちよ。」

スタンフォード伯爵夫人は細身のナイフを手に、レジーに近づいた。彼のシャツをつかむとナイフの刃を当て、一気に切り裂いた。服の裂け目に両手を入れ、ゆっくりと胸を開いた。

「ふふふっ、さすがに鍛えているのね。見事な大胸筋だわ。あら、この傷跡は昔の鞭打ちの痕? 無粋な獄司ね、専門家の風上にも置けないわ。せっかくのきれいな肌が台無しよ。」
「では、あなたは専門家なのか?」
「あら、違うわ。私は趣味よ。玄人跣のね。傷だらけにするなんて、素人のすることだわ。」
「ファーガスン、用意は良くて?」
「はい、奥様。」
ファーガスンは小さな焼きごてを持ってきた。

「私は自分のものには印をつけておくのよ。女は肩に、男は胸に、スタンフォードの頭文字のSの字をね。心配はいらないわ、すぐ済むから」
彼女は焼きごてを手にレジーに微笑みかけた。

そのとき、轟音とともに城が大きく揺れた。
「何? 何なの」
ファーガスンが様子を見に部屋を飛び出して行き、顔色を変えて戻った。
「奥様、大変でございます。スコットランドヤードが城に突入致しました。すぐお逃げください。」
「なんですって、分ったわ。この城は捨てましょう。証拠は残さないように。ブルーシャークもその女も連れてくるのよ」
「後始末は私が。とにかく、お急ぎください。お前たちは奥様をお守りするのだ、いいな。」
「はい」
スタンフォード伯爵夫人は、前後を部下の男たちに守られながら侍女たちと隠し階段を駆けおり、地下の船へと急いだ。
ファーガスンは残った男たちにシルビィを先に連れて行った後、またここへブルーシャークを連れに戻ってくるように命令した。そして、つかつかとレジーに近づいた。
「ちょっと、静かにしていて貰いましょう。今暴れられると迷惑ですから。」
言葉を言い終わるより早く、レジーの後頭部を、拳銃の台尻で思い切り殴った。
レジーの膝が折れ、意識が遠のく。彼は意識が途切れる寸前に鏡に映る自分の姿を見た。
(あ・・・?)


ファーガスンは床に転がったレジーを、本当に意識を失っているか確かめるかのように蹴飛ばした。レジーは荷物のようにただ蹴られた反動で少し動いただけで反応はなかった。
「さて、急がなくては。」

ファーガスンはレジーをその場に一人残し、寝室に戻りスタンフォード伯爵夫人の大事なものだけを鞄に急ぎ詰め込んだ。 そして、いつでも逃げられるように城の内部に仕込んであった爆薬に導火線の先端をセットした。手早く一通りの仕度が終わる頃、先程の部下が戻ってきた。
「隣の部屋に転がっているブルーシャークを連れて船に乗るのだ、急げ。」
「はい」
部下たちは、隣の部屋へ駆け出していった。
「あの、ブルーシャークはどこにいるので?」
「なんだと、鏡の前に転がっているだろう。」
ファーガスンが怒りながら部屋を覗き込んだ。そこにレジーの姿はなかった。

「そんな、ばかな。この部屋に出口は一ケ所しかないのだ。私の前を通らずにこの部屋を出られる筈が無い。しかもあの手枷、足枷をつけたまま逃げるなんて。探せ! 探すのだ。そんなに遠くへ行っていない筈だ 。」

ファーガスンの大声が城内に空しく響いて行った。
     

 注) スコットランドヤードは 1829年創立なので、この頃はまだ存在していません。    

     

 ―つづく―


2004/7/24