よりにもよって、その夜
 
 その夜、妹夫婦を招いて、母方の親族と我が家で夕食会をしたのです。
 それが終わり、妹夫婦と市内在住の叔母夫婦が帰宅、その後、遠方からやってきた叔母夫婦との雑談になりました。それが祖母の介護について及んだとき…「前兆」が来ました。
 張り詰めていた緊張がまた来たという状況だと思います。しかし、これは誰も責められない。

 しかし、これは今だからそう思えるのですね。そう思います。
 今にいたるまで、一生懸命やってきたことを叔母は知りようがない。元気な頃とギャップのの大きすぎる現状を見てショックを受け、そのやり場のない思いをぶつけてきたのだと思いますが、私にはそれをかわす余裕も耐える余裕もその時なかったのです。
 私なりに弁明をしようとしたのだということだけは記憶していたのですが、あとは何も。

 ”お願い、来ないで!”一瞬、そう思うのです、いつも。でも、遅い。
 てんかん発作でした。
 倒れて、意識が戻るまで、30分はかかったそうです。

 気がつくと、泣いていました。
 果てしない頭痛と、気持の悪さ、そして、ショック。
 薬は?→「飲んだ」
 何故、こうなった?今、どうして?

 …ああ!どうして、今日なの?そう思いました。
 明日。また祖母についていなくてはいけない。
 でも。この状態では、とてもついていけない…。
 翌日の付き添いは、母が代わってくれました。

 一番胸の傷として深かったのは、居合わせた叔母の私に対する視線が翌日から完全に変わっていたことです。それは、今まで、就業のためにしてきた努力を、握りつぶした数々の立場の数々のひとびとの目と同じでした。

 職安で。「何?てんかん?あの泡を吹いて倒れる病気か?俺は責任を取りたくない!」とフロア中に響く声。その場にいたたまれなくなって走り出た嫌な思い出。
就職先で。「二度と、わが社や関連企業に関わらないでくれ。君も、こんなことを人に知られては都合が悪いだろう?」

 誓って、私はそれで他人様に迷惑をかけるようなことはしていません。
 遺伝ではないという診断で、親きょうだいが悪いわけでもないのです。これを確かめるためだけに、いくつもの大学病院や専門病院に足を運び、検査・治療費を費やしたか分かりません。
 別の親族(事情を知っていた親族だから良かったのですが)にまで電話で言いまわったということで、非常にショックと腹立たしさを感じました。残念ですけれど、こういうことをされれば本当に親族といえども信じられない相手になってしまいます。
 そして、傍から見れば見えることもあるかも知れない。しかし、やっている本人たちの気持ちを酌量せずに軽々にものを言ってしまうことの罪もあると今も思います。
 ただ、これは叔母への感情というよりも、既にある傷をえぐられたという痛みが大部分のところです。そして2年の間、発作が抑えられれば治療薬の軽減が出来ます。発作を招いたときからまたその2年のやり直しになるのです…それを出来ることなら全部言ってやりたい、詰め寄りたいくらいのことはそのときは思いました。勿論、思うだけです。

 知らなかったのだから、と自分に言い聞かせて、祖母を時折訪ねてくる叔母に接します。
 それでも、忘れるにはまだ時間が足りない。忘れられないかも知れません。

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