1.祖母、急変の報に飛び上がる、の記
中越地震の余震が続く中、ようやくライフラインが復活、そしてゆっくりお風呂に入れる幸せ、普通に必要品を買いにいける幸せを改めて噛みしめていた、そんな時期だったと思います。

我が家は倒壊や半壊を免れ、炊き出し用のストーブがあったために避難所行きを免れました。今思いますと、ああいうときに一番恋しくなるのは多分…身体を温める汁物とか飲み物でしょうね。そして、新鮮な果物とかいつもは何とも思っていないものが恋しくなるんですね。そして、電気が使えるようになるまでは新聞とラジオで情報を得ていたのですが、それがテレビの映像に代わったことへのちょっとしたショックというのもあったと思います。そのギャップにも少しずつ慣れてきて、軽い疲労が出てきたかな、と。その日は朝から少しだるかったです。

地震発生翌日に、車で祖母が入所している施設へ行って、無事を確かめてありました。
また祖母は状況をある程度認識していたようでもありました。物流が復活する以前にも、我が家は祖母の衣類の洗濯はあえて施設にお願いしてなかったので、衣類の取替えやらでちょこちょこと祖母を見舞っていたのです。変わりなかったろう、と思っていましたし、その日も祖母を見舞おうと母は準備をしていたのです。

そこに施設側から電話がかかってきました。電話を取ったのは母でしたが…「呼吸停止?」という言葉を洩らしたときにその場にいた家族全員の顔色が変わりました。急がなきゃ、というのがありましたが、そのときに「間に合わない…多分」という予感がしたんだと思います。(妹はその場で葬儀社勤務の義弟に電話をしています)とるものもとりあえず…搬送先の病院に向かったのですが、市内に叔母がいたのでどうにか連絡がつけばと思いました。が、通勤バスの車中だと分かったので。

施設職員の方が病院の入り口で待っておられて、集中治療室に駆け込みましたが…
一言で言えば、「もう止めてください」と言わねばならぬ状態でした。

これはあくまで私の印象で書くのですが、酸素マスクがつけられ、施設の看護士さんが心臓マッサージをされていました。しかしそれはかなり空しい作業だというのは説明を聞く前に…。施設に常勤の女性医師の方の表情からも、また救命処置に務めておられた医師の方のあまりに事務的な表情からも…、この救命処置というのは「助かる可能性にかけたもの」では既に無いことは分かりました。医療スタッフの方のご説明も、私には後付けでした。要は「死んじゃってました」なんて言えないんで、手は尽くしたが…というところを見せる、それだけのことに過ぎないんだろう、と。

「理解りました。もう結構です…有難うございました」と言ったのは、私です。
他の家族に言わせるにはとても惨い状況であったので、少しは耐えられる自分が言うのが適当なんだろう、と。父も医療スタッフの方々もこれに異議は唱えないだろう、とそう思いましたので。

「午前9時41分」

それは、死亡の宣告の声と嗚咽が入り混じる、こういう場所ではあまりにも日常に起こるシーンでした。そのシーンの中に自分がいて、そして家族と一緒に嗚咽している。悲しいのですが、現実に起こったことという認識がその場では本当にあったのかどうか。

それは今も分かりません。

もどる 2.大叔父来訪にパニック、の記へ