2.大叔父来訪にパニック、の記
医師が死亡診断書を書いている間に、妹の報せで既に義弟は後のことについて便宜を図ってくれるために動いてくれていたし、そして叔母に連絡もついてタクシーで駆けつけてきた彼女を迎えることが出来たと思います。

とにかくひとまず、お世話になっている施設に祖母の遺体は帰りました。そこで我が家への搬送をしてくれる車を待つ、と。その間に看護婦さんが死後の処置をしてくださるというので、私は祖母の居室であったところに走りました。元・同業者としては、その先を早くやりたかった。
「片付けなければ」というのがあったのです。祖母の衣類の洗濯は我が家でしているので、祖母のベッドのある場所の棚からきれいな衣服を取り出し、同じ棚に入れてある袋につめこめばいいんです。それはあっという間に終わり、あとは棚の上においてあったものや祖母の生活上使うもので我が家から持ち込んだものをとにかく詰めに詰めに詰めました。
既に祖母のベッドは取り去られていて、二人部屋の空間が不自然に広かった。
プライベートカーテンを閉じて、ただひたすら作業をしました。そっと施設職員の方が台車とダンボールを持ってきてくださったのが有難かったです。同室の方は全てを察しておられて、私を見たときに身体を起こして寂しそうな微笑をされました。あとは言葉が出ず、また必要としない世界でした。

戻ってみると、本当に綺麗に死に化粧をしていただいた祖母が。

地震で縮小をされていたけど、施設では文化祭をしておられて、そして喫茶室になっていたところではいつも見た顔の方々が楽しげにお茶をしておられた。その横を通り抜け、祖母の荷物一切を運び出さねばならないのがどうにも申しわけがなかったです。そんな大変なときだというのに、搬送の車が来た時に職員の皆さんが揃ってくださって、祖母を送ってくれました。

その日は…数え切れぬほどのことが深夜まであって、その全てを書き尽くすことはかなり難しいです。祖母のきょうだいや親族のほとんどは関西在住ですが、一報を入れるべき関係の人たちです。そして、以前から懸案の問題が持ち上がってきました。

母の実家は祖母の代で終わるのですが、菩提寺と墓は三重県の津にあります。いくら何でも、そこのご住職さまをお呼びできませんから、長岡市内の浄土宗のお寺を紹介していただいてあったのです。(こう言うと時代小説好きの方にはお分かりかと思います)河井継之助の墓のあるお寺さんだったんですが、そこでまずトラブル。地震で本堂などが損壊し、とても住職さんがそれどころではない…ということで、長岡市内に浄土宗の寺は2つしかありません。そのもう一つのお寺に頼んで欲しいということで、急遽お願いということになりました。「それは津の菩提寺にも説明しないと、お戒名を書いたFAXが違う寺に行ってしまうぞ!」ということで、菩提寺に電話。(そしてあとは2つのお寺の間でFAXでのやり取りがあったことだと思います)そんなもんで枕経を上げてもらうまで、ちょっと時間を要したかな、と。

そして、祖母のきょうだいのうち末の弟、私にとっては大叔父にあたりますが、その方のお宅に連絡をしたら留守番の方が出てこられた。その方は祖母のことを知りませんので、大叔父の出先に電話をしたらしいのですが、どうしたことか大叔父の出先は東京だったのです。折り返しかかってきた電話で大叔父本人が来る、と言ってきたのですが、大叔父は電話の最後にこう言ったのです。

「いい部屋、用意しときや」

い、いい部屋って、、、一体???わが家には関係のないタイプの、スイートってやつですか?震災後に取材に押し寄せたマスコミ関係者で満室の長岡のホテルで、いい部屋ってどうすれば取れるんだー!

近所から弔問客は訪れはじめ、その応対をしながらも…翌日の通夜・葬儀の段取りを決めねばならず、その役割分担からまあいろいろいろいろ決め事をその日のうちに決めておかねばならず、喪服のレンタルやら何やらでその日は暮れたと言っていいです。


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