3.大叔父の涙に泣く気を無くす、の記
「いい部屋、用意しときや」

父は本気で参ってしまい、「間に合うだろうか…」と弱気な言葉を洩らしはじめました。それを見かねたある人が、ちょっとした『あの手』を使って…まあまあのところを確保してくれたのです。そしてその夜、大叔父は新幹線とバスを乗り継いで長岡にやってきたのです。

アイビールックにドスのきいた関西弁が印象的な大叔父は、横たわっている祖母と対面するなり、かなり派手に泣き叫んでくださいました。(ファッションに興味のある人にはVANの服というと、どんな感じの服装をしてこられたかがご想像つくかも)

何て言うのかなあ、泣き女の風習の話をどこかで聞いたことがありますが、「泣き男」というか…。実際、二十数年は会ってないのだから、それだけ泣くのは自然なことかも知れないのですが、同居家族だった私たちはポカーンとしてしまったのです。数年前に長年連れ添った奥さまを亡くされていたのもあって、寂しさ一入だったのもあったようですが。

というか、祖母が亡くなったその日、通夜・葬儀の日とも震度5強の余震が続く中のいわば「強行」でした。そんなものですから、祖母を悼む気持ちがないわけでなかったのですが、どっちかというと『何かあったら守らねば』という方向に意識が行っていたのが正直なところです。あんまりいきなりなことで実感すらないうえに、泣いている余裕というものが無いと言うか、しみじみ祖母の死に浸れる状態では無いと言うか。

なもので、大叔父の泣きっぷりに違和感を覚えてしまったというのが正直なところでしょうか?

そして、葬儀というものは一度セットされるとそれが終わるまで…どこかの県知事さんの言葉ではないけど「回転寿司のように」するべきことがやってくるのです。お坊さんの枕経が終わり、大叔父がホテルに向かったあとも、深夜までいろいろと段取りの話し合いは続き、それが終わったのが12時近い時間だったかなあ。昼食や夕食はそれらしいものを食べたことしか覚えてない…そして、暇さえあればおにぎりを握っていたけど、それ以外に何を作ることも思いつく余裕もなかったような気がしています。


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