4.嵐の通夜そして葬儀、の記
祖母の出棺(我が家から葬儀会場にいく)の時には、ご近所の皆さん、それどころでないのに送りにきてくださって、本当に有難かったです。寝込んで、そして施設に入ってから長いと言うのに、思い出してくださった方が来てくださったのですね。

とにかく…時系列で何があったかとか思い出すのは今も正確には無理だと思います。
本当にめまぐるしく過ぎていったんで、箇条書きから始めるしかないんですが、

通夜の日:
午前中に納棺→昼頃に棺が我が家から葬儀場に→通夜→通夜ぶるまい

葬儀の日:
葬儀→出棺→(1)野辺送り→お食事→骨上げ→我が家
         (2)野辺送り→お食事

こんな感じでしょうか。そして遺族としてしなきゃならないことは、その度ごとにいろいろだったのですが…もうそれで頭が一杯になってとても泣くどころの騒ぎではなかっただけですが、多分弔問客の方には「気丈な遺族」だったんだろうと思います。しかし、「気丈な遺族」なんてのは有り得ないもんだとつくづく思いました。弔電は来る、お香典は来る、弔問客が来る、お坊さんは来る、葬儀屋が来る、などなどで、そのたびにバタバタするわけです。ゆっくり泣いている暇などありませんから。

そして、通夜の終わりのあいさつは実は父に頼まれて私がある程度書きましたが、祖母が長岡に来た経緯を簡単に説明するところで「平成」と原稿に書いてあるのをみんな父は「昭和」と読んでしまい、後ろの席にいた父のきょうだい(おじ・おば)を思い切り心配させていました。私と妹も顔を見合わせ、「(祖母は)母の親だってのに、大丈夫か、葬儀終わったら脳ドックに直行させるべきか」と話してしまってましたが、そういえば父は妹の結婚式のスピーチでも…大勢の列席者を前に頭が真っ白になっていたかな、と。(後々、残酷な私たちは、父にそれを突っ込みまくり、妹のダンナに『止めなさい!』とたしなめられてしまったのでした)
葬儀の時の出棺の際のあいさつは大叔父が引き受けてくれましたが、通夜でも葬儀でも大叔父はケッサクでした。後ろから見ると心持ち…首をかしげておられたし、足も組んでおられましたが、よく見るとお焼香とか献花とかに立つタイミングがワンテンポ以上遅いんですね。そして焼香のときとか、祖母のお棺に近づくとき”だけ”、「おおおおお…」と泣かれるのです。出棺のあいさつのときも、クライマックス(起承転結の、転のあたり)で嗚咽を上手くミックスさせておられました。

…なんて、私の見方がひねくれているのか心配になったので、後々列席者&葬儀屋さんにちらと聞いたのですが、『ああ、寝てましたよ。あの方』。やはり、そうだったのか!そう言えば、ホテルの最上階は揺れがすごくて眠れず、ロビーで寝たと言ってたんで、眠かったわけだ、と。
いや、祖母を悼む気持ちは絶対に本当だと思っていますが、大叔父の名前で検索をかけたところ、「日本旅のペンクラブ」というところの会員だと…。うーん、震災中に訪れた先々もこれからの講演ネタになるのかも知れない、と半ば恐怖してます。

あれやこれやで、お骨になった祖母が我が家に戻ってきたのは、葬儀の日の午後4時くらいでしょうか。やっとだよ、おかえりなさい、ご苦労さん。そんな感じでした。


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