父方の祖父の逝去
支えを失うことの哀しさ
季節の境目によく身体を弱らせてしまって、お年寄りがお亡くなりになる例はいくらもありますが、その夏…も大変な猛暑でした。医師の話によると、倒れる随分以前に肺は悪くなっていたのではないか?という事でしたが…その年、父方の祖父が倒れました。
父の実家はコメ農家で時期的にちょうど農繁期、父は八人きょうだいの五男でしたから…伯・叔父、伯・叔母に混じり、付き添いのローテーションに加わりました。大変、痩せ細り見る影も無い祖父の姿でしたが、病衣の襟の間から薄く残った美しい胸筋の跡が忘れられません。誰も、多分、祖父のこけた頬しか見てないのだろう…でも、本当に美しい「よく働いた身体」と思いました。
 ものが食べられなくなると、祖父は鼻腔栄養を拒み、自分で引き抜きました。流動食も拒んだ。そして、さらに痩せ細り…家で最期を迎えました。
 「ありがとう…」と看取った伯父・伯母たちに言いながら。そして、祖父を介護した父のきょうだい、そして父と私は悲しいとはあまり思わなかった。むしろ、出来る事は全てやったのだ、という充足感に似た感情がありました。ただ、直接に祖父を介護して来なかった人たちには、相当に違ったことでしょう。
 父方の祖父が亡くなった時、同居の祖母(母方)は三重県に墓参を予定していました。その時までは本当にかくしゃくとしていたと言っていいでしょう。東京・大阪・神戸の親族の元を訪ねながら、毎年、一人で新幹線・近鉄線を乗り継いでいたのです。急遽、それを取りやめ、亡くなった祖父の元へ行ったのですが、精神的に大変なショックを受けて気落ちしてしまいました。残された父方の祖母は既に恍惚の人となっていました。
 祖母は、私の生まれる以前に祖父を亡くしています。そして元々が土地の者では無かったため、地域になじむ事が出来ず、心の頼りとなる人があまりに少なかった。
 それから程なくして、唯一、話し相手といえた向かいの家のおばあさんが亡くなりました。出棺の折、見送りに付き添いましたが…その時の祖母にはかける言葉も慰めも思いつきませんでした。触われなかったのです。ただ、呆然として焦点の合わない両目から涙が落ちるのも分からぬような、かつて一度も見たことの無い顔をしていました。悲しい、空しい…そのどんな言葉も当てはまることが無いものが、祖母に触わらせなかったのです。見ていて胸が潰れそうな、だけど動けなかった。
 祖母をわずかながら支えていたのは「天寿」というものしか無くなった。その後、転がり落ちるように心身ともに弱っていきました。

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