周囲の無理解のはじまり
家族のためと思っても
辛いですが、これが現実でした。
だからこそ、私は祖母のために「必要で最善の『介護』と『医療』を確保する!」と決めました。しかし、いま思えば私には失っていたものが非常に大きかったようです。精神的なもの、そしてそれがあってもついていかないものが「体力」それに尽きると思います。



福祉系の短大の学生時代に一年、S県内の児童養護施設に住み込みで保母補をしていた頃…主治医には「その関係の就職は避けて欲しい、身体に負担のかかる仕事はしないで欲しい」と忠告をされましたが、やはりあきらめきれず身体障害者療護施設に就職をしました。ただ、長くは出来ないかも知れない…という思いがあり、今思えば急いでしまったかも知れません。施設を運営していた法人が新たに知的障害者の生活施設を作ることになった時、異動を頼み、小規模作業所を経て施設立ち上げから働き、また介護職員の不足のため元の施設に戻り…。その3年というもの、心身ともに限られた範囲ではあり未熟でもありましたが、私なりには最大限の誠意を持って仕事をしたつもりです。
 身体が持たない、のは分かっていたので、尚更…だったかも知れません。
 3年目の秋、「これ以上、この仕事を続けていくのは良くない。このままでは医師としてあなたを診察することは出来ない」と最後通告を受け取りました。分かっていましたが…泣いて泣ききれない、一つの「挫折」でした。



 自分がまさに一番エネルギーのある頃に、それに捧げてしまったのだと思います。祖母の介護は、失ったやりがいの「代償」でもあったかも知れないと思うことが時折はあります。それは、そんな私のエゴイズムだと思います。しかし、それだけにやれる事の限りを現役時代くらいまでとは行かなかったですが、尽くそうとやってきたつもりなのです。つもりでしたが。
 両親との対立は続きながらも、私なりのやり方を通すことは並大抵では無かった。祖母自身はボケたつもりが全く無いですから、私の介護は恨まれるばかりのものでした。終いに私が祖母を苛めた、暴力を振るったと言われ、何もしていないのに同居家族に憎まれたわけです。
 
 祖母はそういうから家族は信じる、しかし私にはいわれがない。しかし何をいっても信じてもらえず、哀しく悔しい思いをしました。
 私はこのことを当時、両親に「一生恨む」とまで言いました。何度、全部止めて捨てて出て行こうと思ったか分かりません。何故私ばかりが、と…。
 なかなか忘れられぬ事実です。

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