万休寺の歴史

 

  当寺は、当初、信州更級郡稲荷山(現在の長野県長野市)にあり日照山萬休寺と号し、信徒の帰依が篤かった。

  永禄年中(1558〜1570 年)に、戦乱を避けるため、信徒とともに越後の国に移った。

当初は長岡の東山麓にあったが、江戸時代の初めころ、信濃川の安定とともに宮内村に進出し、現在の地に堂宇を建立した。


   当寺は三国街道沿いにあるため、江戸時代には牧野長岡藩主の参勤交代時、江戸表から帰路、殿様の最後の休息所となっていて、ここで隊列を整えて長岡城に入城したと伝えている。

  戊辰戦争では、長岡は戦場となり、当寺も官軍の手により堂宇をすべて焼失した。

  その後本堂を再建し、明治・大正時代には、当寺住職は代々医者も兼ねていたため、入院できる病院と製薬所を境内地に設置し、庶民の医療と福祉に貢献した。

  昭和20年8月1日の長岡空襲では本堂・庫裏すべて焼失した。その後、戦後の復興にあたり、堂宇を整備し昭和48年、宗祖親鸞聖人700回御遠忌法要を厳修した。

  現在の本堂は平成5年の再建。