なぜなら、小学生や中学生の子供が「一年が早かった」と言っているのを聞いたことがありません。
仏教の旗じるしであります「三法印」のはじめに「諸行無常」という言葉があります。「諸行無常」ということはすべての存在(品物であろうが、私たちのいのちであろうがすべての存在)が同じ状態でいつまでも続くということはないということです。
すべてのものは変わり続け、人間も例外ではありません。子供の時は成長といい、年をとると老化と言いますが、同じ諸行無常のできごとであります。
日本人は諸行無常というと、もの悲しいとか、うらさみしいとかを想像しますが、お釈迦様のお説きになられた諸行無常はそういうことでなく、ただすべての存在は変化し続けるという意味であり、良いことも悪いことも同じ状態のまま続くことはないということでしょう。
残念ながら、私たちが年をとって老人になって、最後はみんな死んでいかなければならないということも無常の事実です。考えてみればそれは当り前のことで、知識としては知っていることです。しかしこのことが本当に自分のこととして受け取れないことも事実でしょう。受け取れないから、私たちは悩んだり苦しんだりが始まるのでしょう。
仏様は、実はそういう無常の世界であるからこそ、なにげない今日一日が大切で、今というこの時がとてつもなく尊いといことを教えてくださいます。
私たちは、毎日いろいろなことを考えて、いろいろな行動をしています。朝は、「おはようございます」と言って起き、夜に「おやすみなさい」と言って寝るまでの間、いろいろな生活の場面で本当にいろいろなことを考え、いろいろな行動をします。家事をしたり、仕事をしたり、テレビをみたり、趣味をしたり、スポーツをしたり、そのどんな場面でも、頭はいろいろなことを考えて、フル回転しています。
その時考えることは、どんなことでしょうか。物事がうまくいっている時は、有頂天になり、私には能力があり、努力もしており、甲斐性もあり、私ほどえらい人間はいないと思う。しかし物事がうまくいかない時、壁にぶつかった時は、なんで私だけこんな目に逢わなければならないんだろう、わたしほど不運な人間はいないと嘆いて愚痴を言う。人生はこの繰り返しです。
しかし、人生がうまく回転している時間はあまり長くありません。なぜなら諸行無常だからです。どんなに健康や能力を誇っていても、どんなに若さや力を誇ってみても、老・病・死を免れる人は一人もおりません。年老いたり病気になったりすると、口からでる言葉は、愚痴話・くどき話や人の悪口が多くなります。なんでおれだけ私だけこんなめにあわなければならんのか。こんなはずじゃなかった。そんなくどき話が多くなります。
言葉を換えると、若いことはいいが、年をとることはだめ。健康はいいが、病気はだめ。お金持ちはいいが貧乏はだめ。
いつも若くて、健康で、お金持ちの私が基準になっているのでしょう。年をとった私は本当の私でない、病気になった私は本当の私でない、貧乏で名誉のない私は本当の私でないと嘆く。人生の価値基準を若さ・健康・財産などにおいておくうちは、年をとったり、健康を損なったりしたら生きる価値を見失います。
そうではなく、年をとった私も本当の私であり、目や腰が悪くなって歩けなくなった私も本当の私であり、名誉や財産がない私も本当の私である教えてくださるのが、仏教の教えだと思います。
そのことを受け入れ、そういう思いに至った時、「諸行無常」が本当に自分のこととして受け取れることとなるのでないでしょうか。
老・病・死から目をそむけることなく、いただいたいのちの尊さを考える尊いご縁とさせていただき、生き生きとした新しい人生を私たちに与えてくださるのが阿弥陀さまの教えであります。