
いのちの法話
いつも3月花の頃
女房十八、わしゃ二十歳
死なぬ子3人みな孝行
使って減らぬ金百両
死んでもいのちがあるように
これは、誰がつくったかわかりませんが、昔からある戯れ歌です。
いつも3月というのは、今でいえば4月か5月のこと。わたしの周りにはたくさんの花が咲いていて、心地よい気候で、暑くもなく、寒くもないちょうどよく、素晴らしい気候。
今の長岡のように毎日毎日雪が降るなんていう気候でなく、心地よい気候。
そして女房は18歳で若いし美しい、そして私は今20歳、若くてすべてこれから、
あらゆる可能性をいっぱい持っている。夢も希望もいっぱい持っている。今が最高みたいな人生を送っている。
そして死なぬ子3人みな孝行ですから、子供が3人いて、みんな親孝行なんです。絶対に病気も怪我もしない子供が3人いて、いつも親孝行してくれるんです。そして死なないんです。
そして使って減らぬ金100両。毎日毎日豪遊しても少しも、お金が減らないんです。
最後は死んでも、いつまでも命があるように。年とっても死なないで、いつまでも元気で生活していたい。
こんなことが実際に起きれば素晴らしいですね。
しかしこんなことは実際ありえないことなんだ、ということはみんな知っているわけです。
こんなことあるわけないだろうと笑ってしまいますが、実は私たちは、この戯れうたとおなじようなことを願って生きているのでないでしょうか。あんまり笑っているわけにいかないのが私たちの姿かもしれません。
新しい年になりましたが、みなさまも初詣に行かれた方も多いでないかと思います。
今年も多くの方々が初詣に行かれたと思います。そこでどんなことをお願いされたんでしょうか。たいていの方が家内安全、商売繁盛、長寿祈願などをされたことだと思います。
これらの願いは人間の素直な願望で、誰もが持っていることですから、否定したり、非難されたりするものではないと思います。この戯れうたはわたしたちの気持ちを素直に表したものでしょう。
しかし、これをよく考えてみると、ほとんどみんなかなわないことばかり言っています。いつも3月じゃないですよ。ものすごく暑い日もあれば、我慢のならないほど寒い日も多くある。夏も冬もある。最近は本当に寒い日が多いですけど。長岡の気候は本当に四季のはっきりしている気候で、つらい時も多いけどそれだけに春は又かくべつですよ。でも、いつも3月なんてわけにはいかないんです。
次の女房十八、わしゃ二十歳、これも女房がずっと十八であり、私がいつも二十歳であれば、男も女もみんな元気でいいんですけど、そうはいかない。年を一つずつとっていき、みんなもれなく老人になる。いくら気が若くてもからだはいうことをきかなくなる。
死なぬ子3人みな孝行、といってみても、年寄りが先に死に、そのあとで子供が年を取って老人になってから死ぬかと言えばそうばかりでもない。年寄りから順番に死ぬかといえば、かならずしもそうでない。子供が先に亡くなることもある。みな孝行であれば家庭円満ですけど、なかなかそうはいかない。
使って減らぬ金百両。たとえ、年末ジャンボ宝くじで3億円当たったからって、使えば必ずなくなる。
最後に、死んでも命があるように。人は、いきとしいくるものは必ずなくなる。死ななければならない。
実はこの歌のとおりにかなうものは一つもない。
私はそのかなわないということを教えてくれることが、実は仏教の教えでないかと思うわけです。
仏教の旗じるしを三法印といいます。
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静 (雑阿含経)
これが三つの仏教の旗じるし。これを説く教えが仏教ということです。これを説かないのが仏教以外の教えということになります。
その第一が諸行無常。
諸行というのは一切のつくられたもの。一切のつくられたものとは品物であっても、わたしたちのいただいた命であってもそれには常がない。常がないとは同じ状態では続かないということ。諸行無常ということはすべての存在(品物であろうが、私たちのいのちであろうがすべての存在)が同じ状態でいつまでも続くということはないということです。
すべてのものは変わり続け、人間も例外ではありません。子供の時は成長といい、年をとると老化と言いますが、同じ諸行無常のできごとであります。
日本人は諸行無常というと、もの悲しいとか、うらさみしいとかを想像しますが、お釈迦様のお説きになられた諸行無常はそういうことでなく、ただ変化し続けるという意味であり、良いことも悪いことも同じ状態のまま続くことはないということでしょう。無常自体は中立、ニュートラルです。
残念ながら、私たちが年をとって老人になって、最後はみんな死んでいかなければならないということも無常の事実です。そういう無常の世界であるからこそ、なにげない今日一日が大切で、今というこの時がとてつもなく尊いといことを教えてくださいます。
私たちは、毎日いろいろなことを考えて、いろいろな行動をしています。朝は、「おはようございます」と言って起き、夜に「おやすみなさい」と言って寝るまでの間、いろいろな生活の場面で本当にいろいろなことを考え、いろいろな行動をします。家事をしたり、仕事をしたり、テレビをみたり、趣味をしたり、スポーツをしたり、そのどんな場面でも、頭はいろいろなことを考えて、フル回転しています。
その時考えることは、どんなことでしょうか。物事がうまくいっている時は、有頂天になり、私には能力があり、努力もしており、甲斐性もあり、私ほどえらい人間はいないと思う。しかし物事がうまくいかない時、壁にぶつかった時は、なんで私だけこんな目に逢わなければならないんだろう、わたしほど不運な人間はいないと嘆いて愚痴を言う。人生はこの繰り返しです。
しかし人生がうまく回転している時間はあまり長くありません。なぜなら諸行無常だからです。どんなに健康や能力を誇っていても、どんなに若さや力を誇ってみても、老・病・死を免れる人は一人もおりません。そうすると口からでる言葉は、愚痴話・くどき話や人の悪口が多くなる。
言い換えると、若いことはいいが、年をとることはだめ。健康はいいが、病気はだめ。お金持ちはいいが貧乏はだめ。なんでおれだけ私だけこんなめにあわなければならんのかと愚痴がでる。
昨年の三月11日に東北地方に大地震がありましたが、地震・大津波・原発事故、この大災害を見ると、私たちの住んでいる世界は同じ状態の続かないところなんだということを教えられました。
その日まで普通に生活していても、いったんそういう縁がおきてしまえば、どんなに愛おしく思っていても、生き別れ、死に分かれていかなければならない。何万人という人がこういう目に遇っている。今回は東北地方を中心に被害があったが、いつ何時、わたしがこれと同じ目に遇うかもしれない。これが諸行無常の教えだと思います。
法句経というお経にこういう言葉があります。
「人として生を受けるは難く、やがて死すべきものの、今命あるは有り難し」
人として命をいただくことは本当にまれなことであり、例えば宝くじを買うたびに、1等賞が当たるくらいに、ほとんどあり得ないこと、そのあり得ないことが、私の身に起こっていたんです。これは本当に稀なことでした。そして諸行無常の教えの通りいつかは死んでゆかなければならない。
しかし今、命があることが、本当に有ることが難いことでした、といただく。この今ということを教えてくれることが仏教だと言えます
北海道斜里町の寺の坊守さんで鈴木章子さんという方がおられました。47歳で、がんで3人の子供をのこして亡くなられました。その方の詩に「変換」という詩がある。
「変換」
死に向かって
進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然の私が
今生きている
引き算から足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて踊っています
“いのち日々あらたなり”
うーんわかります
鈴木章子
今をいただいて生きる。私たちは自分で人間の平均寿命位までは、生きられるだろうと考えて生きています。そうするとどうしても引き算をしてしまう。引き算というのは今65歳だから男の平均寿命の80歳から今の年齢を引くとあと15年ということになる。75歳になったならあと5年。そうするとだんだんこの数が少なくなってくると暗くなってくる。これが引き算の人生。
そうでなくて、もともと私はゼロだったんだ。今をもらって生きている。毎日毎日いただきものの一日なんだ。これが積みあがった人生なんだ。これがプラスの人生。
一日一日がいただきもの。その賜った命にお礼を言う。これが人生のいちばんだいじなことでないか。
いつの世でも、家族の死、自分の死、というのは突然やってくるものだと思います。わたちは諸行無常の中で生かさせてもらっています。順番もないし時期もわからない。これが現実です。縁起でもないと言われるかもしれませんが、ここが大事のところです。
自分をも含めて。いつなん時、誰がどうなるかわからないのがこの世界のあり様です。
そうすると、どんなに愛おしくても分かれていかなければならない。どんなに大切な家族とも別れなければならない。
今日お別れになるかもしれない。明日お分かれになるかもしれない。
今日お別れになってもいいような生き方をする。今日死んでも満足のゆく生き方をしていく。このことが必要でないかと思います。死を考えないようにして、死から逃げていると、生からも逃げることになる。生の先に死が待っているのでなく、今、生も死も両方一緒にいただいているとういう自覚。
死というものをしっかり受け取ることによって、生きるということが光輝く。毎日、生きているということが光輝いてくる。そういうことがいえるのでないかと思います。